2014年5月30日、裁判&提訴4周年活動報告会でした!その折に、裁判の現状と今後の展望について、 冠木克彦弁護士に語っていただきました。
「福井の画期的判決は私達にとって大きなチカラになるし、また、私達が福井を後押ししなければならない!これまでの累々たるしかばねの上に、勝利がある!」
「大飯判決」が私達の裁判や全国の裁判へ大きな勇気と希望を与えてくれたこと、そして歴史的に大きな意義を持つということを、わかりやすく力強く語ってくださっていますのでここに文字起こしを掲載します。
※PDFファイルは下からダウンロードできます。
勇気と希望を与えた福井地裁判決
累々たる屍の上に、玄海でも勝利を!
玄海原発プルサーマルと全基をみんなで止める裁判の会
提訴4周年活動報告会にて
弁護団長 冠木克彦弁護士
2014年5月30日
こんにちは冠木です。
4周年になるんですよね。2010年8月に提訴して、それから今日まででっかい事が2つある。1つは申すまでもなく3.11の福島・・・もう1つはつい先日出ました福井の大飯判決であります。
先ほど、澤山さん(裁判を支える会会長)も仰いましたけど、この福井判決の意義、それと我々がやっている裁判との関連という、それがまぁ言うなれば私の今日のテーマになると思います。
■生存そのものに関わる「人格権」
まず、この福井判決というのは本当にその限りない勇気と希望を我々に与えた。それはどういう事かというと、結論は勿論あるんですが、その中でその展開している論理形態というものが、ものすごく。判決を書く裁判所のスタンスとして何に一番スタンスを置いているかというと、人格権に置いてあるという。もちろん我々は、どんな原発裁判の中でも原告の権利としては人格権、常に人格権という事を申し上げておりましたし、それで判決の中で人格権というのは出てきます。ただ、負ける判決の中で人格権というものが出てくる時には枕詞として、原告にはこのような権利があるというだけの話であとの展開はない訳です。
しかし、この福井判決のすばらしいところは、人格権という問題について中味を詳しく展開をしている。つまり、事業者側が言うような電気代とかそういうような問題と比べる事ができないものなんだと、だから、比べてどっちがどうかという話とは違うじゃないかという事を明確に言い切ったということです。
一番最初の段階で主題がその人格権ということで出発をしている、そのスタンスを立てて、且つ一番最後に、まとめのところでもそれをダメ押し的に確認している。若干、ご紹介しますと、『極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことである』、ここまで言い切ったのです。
その上で、裁判所が原発の人格権侵害の判断にどのように入れるか、という問題なんですけど、その人格権に対する危険性が及ぶか及ばないかは規制委員会とか、その規制委員会が定めている審査基準だとか、そういうものとは別個に裁判所は直接入れる、とそう言った。だから、事業者側は土足で踏み入れたと思っているでしょうね。なかなかそこまで行くことができなかった。何回もそのことはこの判決の中で言っています。人格権という基本を設定した上で人格権に危険が及ぶかどうかは直接裁判所が判断しなければならない裁判所の役割なんだ、と言っているわけです。
おそらくこの判決は今後、名古屋高裁金沢支部の方に継続をして今後ずっと議論がされていくと思います。法律関係の機関からは、すごいバッシングに合うと思いますけれども、しかし、この事をこの判決の中で言ってもらったという事は、皆さん方が運動していく上でものすごい力になる。「裁判所、こない言ってますよ」とね。「電気代の値段と違うんですよ」って。「だから、この問題について我々は命をかけて闘っているんだと。だから、支援してくれ」って言えるじゃないですか。これはものすごい力だと私は思っています。
■「万が一にも」具体的危険性があるのかが裁判の対象に
それから、詳しく言えばなんぼでもあるんですけど、もう1つ、これはもっぱら弁護士サイドの問題かもしれませんけれども、原発の裁判をやっていると我々弁護士は具体的危険性というのは、もう夢にうなされる話なんですよ。これを一体どういう風にして問題にしてどう主張するのかと。立証責任の負担という問題からいくと、我々が具体的危険のこういうものは考えられるということで一定の設定をすれば、そういう危険はないということを事業者側が立証をしなければ、原告の言っている具体的危険があると推定されると、こういう風には最高裁で言っているんです。言っているんですが、じゃ、どこまで言うたらええねんっていうのがなかなかわからない。で、一生懸命、まぁこんだけ言ってるんだからええじゃないかと思いながら、裁判所の顔色を見るとどうもそんなんではあかんみたいで、ということで今までもいっぱいあるんですけれども、具体的危険性という問題がほんとに難儀な問題として我々の中にある。
で、それをこの判決はどんな風に言ったかというと、訴訟の対象物は万が一にも具体的な危険性が発生するかどうか、それがその裁判の対象なんだという、我々の言葉で言うと裁判の対象を訴訟物と言うんですけど、その訴訟物というのが法律的な言葉でなかなかわかりにくい。この判決はその万が一にも具体的危険性があるかどうか、が審査されなきゃならない、こういう風に言うてくれたら我々は非常に肩の荷が下りたように思うわけですよ。
で、よう言うてくれたな、という事で、おそらくこの問題も今後の論争の中でバッシングにあっていくのでしょうが、ただ、この表現は、最高裁の伊方判決の中によく似た表現があるんですね。それを引っ張ってきているわけです。つまり、放射性物質による災害が万が一にも起こらないようにするために原子炉設置許可の段階で云々という、こういう事を審査してやらなきゃいかんという、伊方最高裁の判決で出ているわけです。そこでその原発、放射性物質による災害が万が一にも起こらないようにするためにと最高裁も言うてるやんかと。だから、それを訴訟の対象物として何が悪いのかという言い方。志賀原発で住民勝訴の判決を書いた元裁判長が同じ表現は使ってませんけれども、この判決が立っている前提というのは非常に当たり前のことに立っているので、これを崩すのは難しかろうという話をしてますけれども、「万が一にも」という問題、これを訴訟上使っていくという、このままでは難しいかもわからんけれども一つの判決としてこれがあるという事は非常に大きな我々にとっての利益になります。
■耐震基準についての明快な論理展開
それから3つ目、これはこの裁判所が非常にタイトな結論に持ち込むために、上手に使ったなという。実は今日私、法廷でぐつぐつと言うてましたけども、私も実は使いたいと。まだ、よくみないことには法廷で言うわけにはいかんから、ぐつぐつとしか言ってませんけども、何かというと、平成18年に原発の耐震基準が変わったわけです。その変わった耐震基準に従って各原発はその耐震基準に合うのか合わないのかちゃんとしたチェックをせんと、耐震バックチェックというんですけど、基準が変わったんだから、その基準にあうかどうかをちゃんとチェックしろと。そこで大飯の耐震バックチェックのクリフエッジ、つまりギリギリのところ、ここから出たらもうあきまへんねんていうそのクリフエッジのところの耐震バックチェックで出てきている数値が1260ガル。関電の方は1260ガルを超えるような地震は来ませんよ、と言っている。
そこで裁判所が出したのは、今まで来ない来ないと言うとったような、原発があるところでこれまで想定してなかった大きな地震がいくつも来てるじゃないか、ということを具体的に指摘している。平成17年8月の宮城沖地震、これは女川原発が想定よりも上回っちゃった。それから19年3月の能登半島沖地震、これは志賀原発。それから19年4月の新潟の中越沖地震、この時はもう火災まで起こりましたからね。あの柏崎の発電所で火災まで起こって、それで保安院はそれまでの地震動を1.5倍にした、そういうものです。それから、この間の東北の大地震。
これだけも起こっているんじゃないか。その中で関電が1260を超えるようなものは来ませんよというのはなんという甘い見通しなんだと、そんなことは信用できんじゃないかということで、切っちゃった。この辺りで切ってくれると、だいたいこれに耐えるような配管だとかそういうものはできないですよね。だって、そのクリフエッジというのは崖っぷちなんだと、これを超えたらもうダメなんですよっていう、そういう地震動です。その地震動を超えませんと言っているけれども、いやいや、超えるようなものがいっぱいあるじゃないかと言われて、超えるということになってくると。だから、関電が大丈夫だと言ってるようなものは信用できないということで蹴飛ばした。だから、論理としては非常にスキーッと言っている。
ですから、さきほど澤山さんが、これは人権宣言だと仰っいました。これは、できるだけマスプリをして読まれるといいと思います。
■「法律要件」の前に、国民の権利が侵害されているという「社会的事実」がある
それで我々の裁判、それから今後の他の裁判の問題にどういう形で持ち込むかという問題ですけども、先ほど言いましたように、なるほどスキッとしてよくわかる判決なんだけど、法律専門 家の辺りでいくとなんぼでもくちゅくちゅとその欠点を引っ張りだすことができる。
ちょっと話が違いますけれども、最近の我々の同僚の弁護士も多分そういう議論はしたことないと言うと思うんだけれど、我々が修習生の時には要件事実教育反対という主張を我々やったんです。要件事実教育というのは、社会的事実を法律の要件に当てはまるかどうかを考える。で、そうではないだろうと。元々、事があるのは社会的事実の方に国民が権利を侵害されたり、不利益を受けたり、現実に困るようなものは社会的事実の中にある。その出てきた社会的事実をいかにして法律的な要件に構成するかが法曹の役割だと。だから、要件事実教育というのは法律があってそれに社会的事実を当てはめようとする。そこからはみ出たやつは切り捨てる。それは官僚法曹であって、国民のための法曹ではないというのが私達の主張でした。
で、それでみるとこの福井の裁判長のまさにこのやり方というのは、今までのやり方と全然違った形で社会的事実そのものをずらっと見て、それに対していかがなものかという判断をした。これは我々が言う、私どもが修習生時代にやった要件事実反対を実現しているような判決のように思います。そして今後私どもはどういう風にしてこれを擁護して活かしていくか、というのが次の問題になります。
■配管ひび割れ事故~玄海2・3号機仮処分
これはこちらの玄海原発の問題とも同じなんです。で、今日、仮処分の審尋で裁判長が言ったのは、仮処分は2つ出してまして、2号機と3号機なんですが、3号機はMOXは後で話しますが、2号機については、過去に重要な配管部分にひび割れが起こったという大事な問題があるわけです。しかもひび割れが起こっているのに長い期間発見できなかった。佐賀新聞の調査では11年に渡ってわからなかった。こっちの資料でも5、6年だと思いますけれどもわからなかった。で、それでもわかったから大丈夫なんていう主張を九電はしているんだけど、わかってなかった時に地震がきたらどないなんねん、という話をしてる訳です。
裁判所が今日言ったのは、ではどの程度の大きさの地震が来たら配管が壊れるのか、その辺りを主張として考えてください、と言っていますから、基本的問題点を指摘されています。それを出そうと思います。そんなに難しいことではありません。出せると思います。
■基準地震動二重基準問題~全基差止裁判
それともう一つ、1号機2号機3号機4号機の4つについて全機差し止めの裁判をやっています。1号機についてはご存じのように原子炉容器の脆性破壊の問題があります。井野先生にお願いして法廷に出て証言をして頂いてという風に考えておりますけれども、1号機は原子炉がどうやら他の原子炉よりも悪いんだと。その中で兆候がずっと出てきてるということで、仮にあんなもんがポカーンと割れたとすれば、そんなもん西日本全部やられてしまいますから、ものすごいことになるんです。だから、その危険性があるという話で1号機は立証してそれで判決をもらうと考えています。
3号機はMOXがあります。2号機と4号機について、もう少し判決までもらえるような主張としては下支えをしていかなければいけない。その中にやっぱり地震があります。地震で何をいうかというと、武村式という話はこの裁判の中でも出していますけれども、今までの基準である入倉・三宅式の地震動計算の基準より武村式の基準で計算すると4.7倍ぐらいになるわけです。武村式の基準というのは津波についてはもう既に採用されているわけだから、地震動についても採用しようという問題がある。新しい審査基準のどこにそれをほおり込むのかという問題なんですが、新しい審査基準の中で武村式だとか入倉式とかそんなのを書いてる訳じゃないです。書いてあるのはその不確かさの考慮というのがある。こういうような、事業者側が基準地震動というものを設定して、それに合うような耐震構造を持ってるということを作り上げて、それを規制委員会でもって、うん大丈夫というようにするわけですよ。その大丈夫というところに不確かさの考慮という要素が、新しい審査基準の中で出てきてる。これをどれだけ膨らますと言うたらおかしいけれども、どれほど我々が主張して、その中に武村式を入れるかという問題になる。つまり、武村式は事業者がまだ採用していない。今までのやり方で基準地震動というものを設定して、それで川内でやりましたよね。川内で一応、基準地震動を出したけども、規制委員会がちょっと首を横に振ったので、基準地震動を上げた。それでどうやら規制委員会は通りそうだ、こういう話です。
こっちの裁判の方は基準地震動というのがあって、それについてOKするかどうかというのが問題になる。しかし、その基本的に考えられる原発を絶対安全にしなきゃならないという事で考えるならば、その地震動に耐えられる力というのは、武村式で計算した形での耐震性を持たんことにはダメだという主張を我々は出せる。それで今回の福井の判決というのは、福井の判決によっても後押しも我々はもらえるけれども、今言った主張を強く出すことによって、福井の地震の判決に対する後押しだって我々はできる。双方があいまって、強めていくことができるのではないかと。そこに私は大きな希望を持っているんです。
■危険なギャップ再開の可能性~3号機MOX使用差止裁判
MOXは、もう本当に我一人我が道を行くというやつで、小山さんのご尽力によって、少なくとも3運転期間(クール)MOX燃料使えることになっているけれども3クール目の途中くらいで、ギャップが再開して、そして危険な状況になりうる、という立証を我々は今やってるわけです。だいたいやれていますが、全部立証しつくしたとして、今度の9月に最終書面を書いて、となると今年中の判決というものがもらえそうになる。
予想されるのは、少なくとも現在使っているMOX燃料でいけば、1年目2年目はいけるかもしれんけど3年目は使っちゃいかんよ、というようなのが最低限の判断ではないかと。一番いいのはというか、我々が基本的に考えているのは3年使えるという燃料が3年目で大事故を起こす、そんなもん初めから使うな、こう言いたい訳です。だから、最初から使用差し止め、という判決を求める。で、その判決が可能性としてないわけではない。少なくともそれがダメでもさっき言ったみたいに3年目は使えないよ、というのはあり得る。
これはMOX。このMOXで勝ちますと、他に色々プルサーマル使おうとしてるところ、関西で言えば関電の高浜3号4号がぼちぼち出てきます。北海道電力もありますよね。そういう所にかなり有利な形での材料を提供することができるんではないかと。
■福井判決も受けて、あせらずに闘う~行政訴訟
最後ですけど行政訴訟です。行訴は新しい審査基準があって、玄海の3、4号がその審査基準に違反するから止めろというわけです。ところが、この審査申請を3号4号と出しています。規制委員会がそれで合ってますよ、合格ですよと言ったとするね。裁判の構造は昔と違って国に対しての裁判だけれど、原子力規制委員会が相手なんです。その規制委員会が基準には合うてますよという事でOKしたその判断に対して、お前はその玄海3、4号を動かしてはいけないという命令を出せという、今求めているのはそういう形。そういうのはうまいこと成功するだろうか、という問題がある。その場合は規制庁が審査基準に合うと判断した判断の中味が間違っている、という形の争いになるかと思います。という事は解釈論争になりそうで、それが得策かどうかいう問題が実はある。
もう一つ考えられる。規制委員会が、うん、条件に合いますよ、合格しました、と。「合格しました」という合格証というのは何かというと、玄海3号なら、玄海3号機の設置変更許可申請が出されてそれに対する合格が出た、つまり設置変更許可というのがその公式な決定なんです。それが間違っているということであるとすれば、設置変更許可の取り消し訴訟になる。その時は許可が出た段階で皆さん方の委任状を頂いて異議の申し立てを一旦やっといて、そして、許可取り消しの行政裁判に切り換える、というやり方。そういう異議申し立ての期間もずっと過ぎて後でやるのだったら、設置変更許可の無効確認訴訟というのもある。我々として一番闘いやすいやり方がどれかという事を選択しないといけない。
その時にこの福井の判決ですけど、福井の判決は規制委員会の規制基準と相対的に独立して裁判所は判断できると出した訳です。住民の人格権を守るためにはどういうふうにしなければならないかというのは、裁判所は規制委員会とは独立に判断できると出した訳だから、規制委員会が規制基準に合うか合わないかという問題とは別に少なくとも住民の生命や健康を保護するためには、規制基準ではこのように定めているけれども、もっと上でないといかん。そういうことでもって、この決定自体が間違っているという訴訟を出せないことはない。そこのところは全体の動きを見た上で判断させてほしいと考えています。
ですから、行政訴訟は、皆さん方から見られたら、ちんたらちんたら国の方はなんや知らんけど、しょうもない主張ばかり出してきて、ごっつい資料ばかり出してきて、もう肝心なことをちっともやらんやないかという事でイライラされるかもしれませんけど、ただ、行政訴訟はそんなに焦る訳にはいかない。一番大事なことを認めさせるにはどうすればよいか、という事を頭に置いといて欲しいと思います。
■累々たる屍の上の勝利
それでも今回のこの福井の判決があって、本当に僕は気持ちが楽しくなりました。皆さん方、大分県に居られた松下竜一さんってご存知でしょうか。亡くなられましたが。僕ら講演に来て頂いたりして話をしたこともありますが、ノンフィクションの話を色々書かれています。松下さんは若い頃に火力発電所の建設の差し止めをしなきゃいかんという事で、ある進歩的と言われる法律事務所に行った。受けてくれるやろうと思って行ったところが、あにはからず、負けるような裁判はしたらいきませんって言われた。それで松下さんは怒った。こんな大事な問題で、困難な問題だというのは誰でも分かってんやと。1発で勝ってくれとは言うてないやないかと。大事な勝利というものは累々たる屍の上に築かれるんや、と言ったわけ。私はその言葉をずっと忘れないで持ってるんですが、この福井の判決を頂いた時に、これは累々たる屍、私もいくつか屍を作りましたけど、累々たる屍の上の勝利だったという風に思います。
バッシングにあうでしょうけれども、ここで出てきたものを、より法律的に負けないような形に構成して、あとの裁判を闘いたいという風に考えています。以上です。