澤山保太郎・裁判を支える会会長が、大飯原発3・4号機運転差止についての福井地裁判決について寄稿されたので、紹介します。
大飯原発3,4号機運転差止請求事件について福井地裁の判決文
澤山保太郎
平成26年5月21日福井地裁は、若狭湾の原発銀座で稼働中の原発について運転差し止め請求を全面的に認める画期的な判決を下した。
この判決を書いた裁判長樋口英明は日本の人民闘争の歴史に燦然と輝いて記念されるであろう。まさに原発についての人権宣言とも言うべきものである。
この判決文の骨子は、
第1に、電気事業という経済活動の自由を劣位において憲法上の人格権を至上とし、
第2に、具体的な原発の安全性についての判断基準として、2011年の福島原発事故を
中心に据えた事
第3に、被告電力側の安全性についての主張を詳細に検討し、被告の主張の根拠の薄弱性を全面的に指弾したこと、以上3点に要約できる。
第1の人格権の措定では、これが侵される最大のものとして、大きな自然災害と戦争とそして原発事故をあげた。原発事故は、戦災と比定されたのである。
そして、この原発被災の危険性は、ひっきょう、生命・生活を維持する「人格権の根幹部分」を揺るがす危険性は、「その侵害の理由、根拠、侵害者の過失の有無や差止めによって受ける不利益の大きさを問うことなく、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。」と喝破する。
第2の福島原発(及びチェルノブイリ原発事故)については、
「技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、その被害に対応する安全対策があるかどうかを判断すれば足りるとし、原発技術の危険性の「本質とそのもたらす被害の大きさは、福島原発を通じて十分明らかになったと言える。」とした。
すなわち福島原発事故の現実、そこにおける完全なる人格権の喪失態、その侵害の実態が司法判断の基準になるというのであって、その判断は、原子力村らが金科玉条とする規制基準、「原子炉規制法をはじめとする行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない。」と断定した。したがって、その判断は至極簡単であり、誰にでもわかるものであり、「高度の専門技術的な知識、知見を要するものではない。」という。
第3に、以上の人格権の至高性、福島原発被災の実態を大上段に振りかざして、判決文は、被告関電側の用意するもろもろの安全対策を完膚なきまでに論破し破却した。
地震や津波、竜巻、テロなどの事案が発生したときの安全対策は①止める、②冷やす、③閉じこめる、であるが、福島では①の止めるということでは問題になっていないので、②冷やす、③閉じこめるの2つの場面での安全策が俎上に上った。判決文が取り上げたのはその二つの場面を揺るがす地震と津波である。被告関電側の原発を襲う地震の強さの根拠なき楽観的な低予想値、そうして原発機器類の損傷に関する単一事故の御都合主義的設定、重要機器類の低耐震設計、特に使用済み燃料の無防備的保管体制の放置など目を覆いたくなるような安全対策のでたらめさが次々に暴露され指弾された。
結局、被告関電側の次の主張
「…人格権に基づく差止請求はその相手側が本来行使できる権利を直接制約するものであることにかんがみれば、その法的解釈は厳格にされなければならない。具体的には、上記請求が認められるためには、人格権侵害による被害の危機が切迫し、その侵害により回復しがたい重大な損害が生じることが明らかであって、その損害が相手方の被る不利益よりもはるかに大きな場合で、他に代替手段がなく差止めが唯一最終の手段であることを要すると解すべきである。」
そんなことはあり得ないと楽観的に述べてみたこの主張が丸ごと判決文に現れたのである。
こうして、福井地裁判決は素晴らしい人権宣言的判決文として明治初年の高知県庁の「人民平均の理」や全国水平社の「水平宣言」そして、日本国憲法(前文及び第9条)と並ぶ金字塔として記念されるべきものである。
しかし、一つ残念な判断がある。
終わりの方で判決文は、高レベル核廃棄物の処分について判断を避けたのは残念であった。
「幾世代にもわたる後の人々に対する我々の世代の責任という道義的にはこれ以上ない重い問題について、現在の国民の法的権利に基づく訴訟を担当する裁判所に、この問題を判断する資格が与えられているかについては疑問があるが、・・・」といっている。
だが、戦禍と同じように、否、それ以上に、現在及び未来の人類を最大限の危機におとしいれる高レベル核廃棄物を作った責任は、「道義的」な次元の問題ではない。現在の刑事、民事上の重大犯罪行為であってその罪科はA級戦犯と同列なのである。原子力村の幹部たちは数珠つながりに極東軍事裁判のような特別な人民裁判の法廷に引き出されそこで極刑が申し渡されるべきなのだ。