陳述書
2017年9月8日
佐賀地方裁判所御中
住所 長崎県平戸市生月町
氏名 伊福 規
(1)
本日は意見陳述の機会を与えて頂き有り難うございます。私の住まいは玄海原発からおよそ40キロ地点の平戸市生月島です。高台にある私の家からは北東方向遮るものもなく玄海原発が望めます。一旦福島のような過酷事故が起これば放射性物質は風に乗り易々と私の島に数時間のうちに届き島中に降り注ぐことでしょう。福島第一原発は背後に山地を控え遮るものもありますが、長崎県北部地域には海を越えてまっすぐに五島列島まで放射性のプルームが到達します。特に今の季節は盆北と呼ばれるお盆過ぎの強い北東季節風が玄海灘から吹き寄せます。玄海町からは一時間もかからず風が達することでしょう。
(2)
多くの国民が福島第一原発事故のような過酷事故は起こらないと信じ込まされて来ましたが、事故は起こりました。想定外という言葉がメディアを通じ私たちに言い訳として発信されました。しかしどのような言い訳をしても被ばくした人々や生き物達、大地や海にはなんの救いにもなりません。地震の被害は時の経過とともに国や国民の熱意や努力で復興がなされることでしょう。しかし放射性物質に汚染された人や生き物、大地や海はその後の長きに渡りその影響を受け続けます。
そのような人智を超えた悲惨な被害を何世代にも渡ってもたらす危惧のある原子力発電を廃止し、持続可能な自然エネルギーを利用した発電システムに国を挙げて取り組むことこそ、未来の理想的エネルギー社会の構築であると我が国は方向を定めるべきです。
想定外で起こる放射能事故。処理方法のない使用済み燃料や放射能汚染物質の増大拡散。そのツケを次世代はおろか未来の数十、数百世代に渡って残す権利は今を生きる我々にはありません。間違いを素早く認め、より安全な社会の構築に向け全国民が力を合わせ負の遺産を処理して行くことが重要だ、私にも何か出来ることがあればと、居ても立ってもいられない思いで原告団に参加しました。
(3)
私は生月島に生まれ中学まで育ち、高校は下宿で佐世保市の高校に行きました。中学同級男子100名中50名が地元の巻網漁船員として就職しました。当時高校に進学出来たのは経済的理由で2割程度、多くは中卒後島に残り大工や左官、土方になりました。女子は集団就職でその多くが都会に行きました。
高卒後大学に進学、10年の都会暮らしの後、子供を授かり子育ては自然豊かな故郷の島でと思い、家業の鉄工所を継ぐため家族を連れ島に帰りました。
鉄工所の仕事は主に漁船の修理で漁師とともにある生活です。小中学校以来の友人達の漁船を修理し沖に見送るのが日常でした。生月島は漁業、農業、港湾建設業そして橋が架かった現在では観光業を主な産業としています。平成3年、生月大橋が平戸島との間に掛かり平戸島を介して生月島は九州本土と陸続きになりました。それまで離島ゆえ観光客がほとんど訪れることのなかった島は週末、観光客で溢れました。島興し運動のボランティアに参加していた私は観光客に島の特産品をアピールした商品を提供したいとの思いで、アゴダシラーメンを開発し「大気圏」というラーメン専門店を開店しました。その目的は二つ。第一に観光客に生月島の特産品を提供し喜んでもらうこと。第二に地域限定的にしか知られていなかった「アゴダシ」の魅力を広く世間に伝え需要を喚起し「アゴ」の価格安定を通じアゴ漁師の収入向上を目指すというものでした。当時のアゴ漁は豊漁になると価格が暴落し約1ヶ月半の漁期を終えると、今年は赤字だったという年もよくあり悲喜こもごもの漁師の暮らしぶりを身近に感じていました。それから25年が過ぎた今、北海道から沖縄まで日本全国「アゴダシ」は広く知られることとなり今や5倍10倍の高値安定が定着しました。わずかひと月半の秋のアゴ漁で得られる収入は500万から1500万。アゴ漁に携われば1年間の収入の多くが得られる島の漁師にとって、漁師を続けて行く希望と安心が得られています。
そのアゴはお盆過ぎに吹くボンギタと呼ばれる北東季節風にのって日本海から掃き寄せられるようにこの地域にやって来ます。平戸島と生月島に挟まれ北東方向に開いた大きな湾は袋小路のアゴの吹き溜まりとなり、我々の暮らす目の前でアゴ漁が繰り広げられるのです。アゴダシに適したトビウオはこの時期のこのサイズ、まさに平戸生月で漁獲されるものしか全国に類例を見ません。
島に恵みをもたらすボンギタが放射性物質をもたらすことにでもなれば、私たち島の歴史や文化そして平和な生活はすべて失われます。地元に残り島の生活を守って来た我々はどうすればよいのでしょう。福島原発事故後の住民の悲劇を見れば、誰も真剣には救ってはくれない、国家も当てには出来ない、ましてや電力会社など自らの身の始末もおぼつかないことが誰の目にも明らかです。一体、一企業に大地や海を汚染し、多くの国民と子孫に悲劇をもたらすことが危惧される事業を推進する権利があるのでしょうか。
(4)
私の鉄工所は2012年、東北大震災の復興支援のため東北岩手県の大船渡に約半年社員を派遣しました。その任務を全うしたのは全国で我が社一社だけでした。最悪のもしもを考え家族のため社員全員に高額の保険を掛け、余震が続く中、津波で被害を受けた漁船の修理復旧に当たりました。私も東北に行き震災の被害を目に焼き付けて来ました。そして福島の現状を見ておこうと福島県に移動し二本松市に投宿し地元民の案内で原発30キロ圏内の強制避難区域の波江町、葛尾村、田村市の山村を車で巡りました。線量計は常に危険な数値を指し示し続けました。自然豊かな山や畑、一見平和な村には人影は無くまさにゴーストタウン。新築のきれいな家も徐々に荒れ果てて行く様が感じられました。そして田んぼには表土をはがし集められた黒いフレコンバッグが山と積まれた光景をあちこちで目にしました。村を後にし強制避難区域外の農家に立寄り話を伺いましたが彼らは遠く九州から取り寄せたお米を食していました。そこで聞いたのは福島の米は沖縄に行ってるという話でした。そして先の見えない不安を訴え、田畑は除染しても山は除染できないからいつまでも山から放射能が漏れだして来るという現実でした。
私はこのような救いがたい悲劇をもたらす危惧のある原子力発電は人類とは共存出来ないという確信を得ました。
(5)
去る3月、九電や国による玄海原発再稼働住民説明会が実施されました。再稼働ありきの説明会。主催者は再稼働にご理解をと平身低頭のお願いをするばかりで、参加した市民の理解を得ることなど到底出来るような説明会ではありませんでした。一例をあげれば航空機が原発施設に墜落する可能性は天文学的数字の確率であり問題ないと。私は質問しました。「北朝鮮が複数発のミサイルを施設に打ち込んだ時どのような被害と対応を想定しているか。」答えは「そのような事態については考えていない。」と。
結局原発は安全だという答えを導くために用意された設問に対しての検討結果の一方的説明に終始し、住民の不安や不信感とまともに向き合う姿勢のないことがはっきりしました。会場は怒りと不信感に満ちていました。
後日、平戸市議会は全会一致で再稼働反対を決議。県や国の決定に従うと表明していた市長も議会の後追いで反対を表明せざるを得ませんでした。
想定外によって起こった過酷事故。我々素人の一般市民でも想定できる差し迫ったミサイル危機は想定外で処理される。このような欺瞞に満ちた国や電力会社は全く信用できずだれもが責任を取らない、いや取れないような事業は即刻中止、廃止することを強く、強く求めます。
最後に九電の取締役が締めた哀願の言葉が今も耳に残っています。その要旨は「社員や家族の生活が懸かっているので原発再稼働を認めてほしい」
以上です。