9月27日、玄海原発全基差止裁判第31回口頭弁論と、行政訴訟第23回口頭弁論が佐賀地裁(達野ゆき裁判長、田辺暁志裁判官、野口宏明裁判官)で開かれました。
各地の仲間が傍聴にかけつけてくれました。
今回は、福岡市の池天平さんと千葉県の阪上武さんがそれぞれ素晴らしい原告意見陳述を行いました。
池さんはお連れ合いと娘さん2人が見守る法廷で、「誰かの犠牲の上にしか成り立たない発電方法は必要ない。子ども達の未来を奪わないで!」と訴えました。
原子力規制を監視する市民の会などで活動されてきた阪上さんは、裁判所が「社会通念」「絶対的安全性」などの言葉を持ち出して原発を容認する最近の一連の司法判断を批判し、「なぜ裁判所が安全のレベルを率先して落とすようなことをするのか。このままでは裁判所が次の重大事故を引き起こしかねない」と訴えました。
来年7月17日の結審に向けて、今後、プレゼンや証人尋問が予定されるなど、裁判も大詰めです。
傍聴席をいっぱいにして、裁判官に私たちの「原発いらない」という意志を示しましょう!
みなさんのご注目とご支援を引き続きよろしくお願いします。
◆法廷プレゼン(佐賀地裁、原告のみ傍聴可)
10月1日(火)13:10~九電・国がプレゼン
10月25日(金)11:00~原告・九電がプレゼン
◆今後の期日(佐賀地裁)
12月13日(金)13:20~入廷前アピール 13:15~進行協議(弁護団)
14:00~行政訴訟(第24回) 14:30~全基差止(第32回)
15:30~記者会見・報告集会
2020年2月21日(金)13:20~入廷前アピール 14:00~行政訴訟 14:30~全基差止
4月10日(金)10:00~証人尋問(行政)
4月17日(金)13:00~証人尋問(全基)
7月17日(金)14:00~結審(行政・全基)
※この活動は一般社団法人アクト・ビヨンド・トラストの助成を受けています。
陳 述 書
2019年9月27日
佐賀地方裁判所 御中
住所 福岡市東区
氏名 池 天平
(1)
私は福岡市に住む池天平と申します。現在、37歳で会社員として働いており、妻と6歳、2歳の2人の娘と暮らしています。
私は1981年に大分県大野郡野津町、現在の臼杵市で生まれました。実家は吉四六劇団造形劇場という家族劇団を生業としており、西日本の小中学校などを中心に全国で公演活動を行っていました。
私が5歳のころにチェルノブイリ原発事故が起こりました。原発の危険性が目に見える形であらわになり、反対の声は強まる中両親も原発反対運動に参加するようになりました。私もそのような中で育ち、1987年、1988年に実施された伊方原発の出力調整実験に反対する集会に参加し、人間の鎖となったことを記憶しています。子どもながらに、大の大人がこんなに大勢集まって反対の声をあげるほど危険なものなのだと感じました。その後も各地で原発反対の集会などに家族で参加し公演を重ねてきました。
(2)
20歳の時に実家を離れ福岡市に転居してきました。それから2年ほどして、父の体調不良などもあり劇団は廃業。それ以来、原発反対運動に触れる機会はほとんどなくなりました。20代の前半は社会問題にも全く興味、関心がなくなり、大量消費社会にどっぷり浸かるような生活を送っていましたが、26歳の時に某生協に就職しました。その生協は脱原発をすすめ、再生可能エネルギーの普及に取り組んでいたので、再び原発との接点ができました。原発のみならず、様々な社会問題についても関心を持つようになりました。
そんな時に福島第一原発事故が起こってしまいました。2011年3月11日。一生忘れることのないこの日。当時私は生協のトラックで福岡市内を配達していました。配達先のご婦人が「今、東北で大きな地震が起こったみたいよ」と教えてくれました。配達のトラックに戻った私は、携帯電話で報道番組を観てみました。するとそこには、およそ映画でしか見たことのないような光景が広がっていました。宮城県名取市を津波が襲うまさにその瞬間でした。高さ10メートル近い真っ黒い津波が次々と街を飲み込んでいく様子をしばらく呆然と観る事しかできませんでした。
仕事を終え帰宅しテレビをつけると、政府が原子力緊急事態宣言を発令したと報道。福島第一原子力発電所が地震、津波に襲われ、全電源喪失という事態に陥り、1、2号機は非常用炉心冷却装置に注水ができず炉心がむき出しの状態だという事でした。まさか、この日本で、チェルノブイリのような原発事故が起こるなどとは思っていなかった私は、とんでもないことが起こったなと思うと同時に、それでもまだ夢か映画でも見ているような感覚でいました。
その後は1号機、3号機、4号機と原子炉建屋が相次いで爆発。
東日本を中心に、広く放射能に汚染されてしまいました。飲み物や食べ物の放射能安全基準は何倍にも何十倍にも引き上げられ、今まで決して口にしてはいけなかったようなものが流通してしまいました。私が当時勤めていた生協では放射能検査を実施し、その結果を機関誌やHPで公表していました。私もこの情報から出来るだけ東日本産のものは口にしないように気を付けていました。この件に関してよく「風評被害」という言葉が聞かれますが、風評被害というのは、なかったことをあったようにされることであり、放射能汚染に関しては実際にあった事なので風評被害という言葉は当たらないと思います。放射能汚染がなかったのなら、食品の安全基準を引き上げる必要もないのです。そして、原発事故に関して加害者は国であり、東京電力であり、消費者も生産者も被害者であるという事ははっきりさせておかなければいけないと思います。
(3)
さて、私が原発に反対する理由ですが、それは「誰かの犠牲の上にしか成り立たない発電方法は必要ない」と思うからです。
原発は事故が起これば汚染や被ばくなど大変な被害をもたらし、そこに住む人々や動物、環境などが犠牲になりますが、実は通常運転を行っている間、さらにそのずっと前の段階からたくさんの犠牲の上に成り立っているのです。
例えば、ニュークリア・レイシズムという言葉があります。これは核による人種差別という意味です。
原発を稼働するには大量のウランが必要です。原子力発電というのはウランを核分裂させて熱エネルギーを得て水を沸かし蒸気の力でタービンを回転させて電気を起こすからです。
日本の原発を稼働させるためにウランをカナダ、カザフスタン、ニジェールなどから輸入しています。
そして、そのような地域で、採掘作業をしているのは現地に生きる私と同じような普通の人々です。その土地で生まれ、育ち、家族とともに普通の暮らしを営んでいる人々です。
採掘の現場では当然被ばくの問題が起こりますし、採掘現場から流れ出た汚染水が川に流入し、その水を生活用水として使っている人々は飲んだり身体を洗ったりして被ばくします。さらに、川に生きる魚が被ばくし、被ばくした魚を食べる人々が被ばくします。土壌にしみ込んだ放射性物質はその土地でとれる作物や、家畜のエサである牧草も汚染し、人々の身体を蝕んでいきます。原発を稼働するための、1番初期の段階ですでに人権侵害や環境汚染を引き起こし、人々の暮らしを犠牲にしてきたウランによって、日本の原発は稼働されているのです。
また、広島と長崎に落とされた原爆に使われていたウランは、カナダのグレート・ベア・レイクという場所で、先住民の人達が採掘したものが主に使われていて、のちにその事実を知った先住民たちはひどく心を痛めたそうです。彼らは健康を害しただけではなく、心にもとてつもなく深く大きな傷を負ったことでしょう。
これだけではありません。原発を建設する際には、地元の人々の賛成反対という二項対立による分断を生み、コミュニティを破壊します。稼働を始めれば、定期点検で作業員の方々は被ばくします。その作業員の方々が着て放射能に汚染された防護服や手袋は敷地内で焼却され、放射性物質は大気中にばら撒かれます。海に大量に流入する温排水により海の中の生態系が壊されます。使用済み核燃料は未だに処分方法が確立されておらず、私たちの子供の世代、孫の世代に責任が丸投げされようとしています。ひとたび事故が起こった場合の避難計画も机上の空論であり、多くの住民の暮らしが犠牲になるでしょう。
(4)
想像してください。私たちが使う電気のためにこれまでどれだけの人々を犠牲にしてきたのでしょうか。そしてこれから先、どれだけそのような犠牲を続けていくのでしょうか。
私が育った大分県臼杵市は愛媛県の伊方原発から直線距離で60㎞ほどです。現在住んでいる福岡市東区は佐賀県の玄海原発から50㎞ほどです。そして日本の国土の半分ほどの地域は原発から半径100㎞圏内に入るそうです。福島第一原発の事故は決して他人事ではないのです。
私には2人の大切な娘がいます。玄海原発で事故が起これば、子どもたちの健康への影響を考え、私たちは海外へ避難することになるでしょう。そして二度と故郷に帰ってこられなくなるかもしれません。原発を稼働させ続けることによって、私たちの故郷を奪わないでください。子どもたちの未来を奪わないでください。あらゆる犠牲を強いて稼働している玄海原発の運転を止める判決を下していただけることを切にお願いし、私の意見陳述を終わります。本日はありがとうございました。
陳 述 書
2019年9月27日
佐賀地方裁判所御中
住所 千葉県船橋市
氏名 阪上 武
(1)原告の阪上といいます。この間、福島第一原発事故の被害者の支援活動と並んで、市民の立場で原子力規制行政を監視する活動を行ってきました。事故後、最初の川内原発の審査で問題となったのが火山でした。専門家と協力しながら、原子力規制庁との意見交換、原子力規制委員会への提言などを行ってきました。こうした経緯から、玄海原発の火山影響評価に関して陳述させていただきます。
(2)「火山ガイド」は立地評価において、事業者に対し「設計対応不可能な火山事象が、原子力発電所の運用期間中に影響を及ぼす可能性が十分に小さいこと」の立証を要求しています。九州電力の場合、阿蘇を含む九州の5つのカルデラ火山において、火砕流が届くような破局的噴火が、原発の運用期間中に発生する可能性が十分に小さいか否かが問題となりました。
(3)川内原発差止仮処分について2015年4月に鹿児島地裁が下した決定は、可能性が十分に小さいことは立証されている、との九電の主張を全面的に認めるものでした。これに対し、専門家から次々と批判の声が上がりました。原告は即時抗告し、2016年4月に福岡高裁宮崎支部が決定を下します。決定は事実認定を丁寧に行ったうえで、専門家に従い「噴火の予測は困難」としたうえで、「相手方がした、5つのカルデラ火山の活動可能性が十分に小さいとした評価には、その過程に不合理な点があるといわざるを得ない」と、九電による立証を否定しました。これで差止のはずでした。
(4)裁判所がここで持ち出したのが社会通念でした。決定には「影響が著しく重大かつ深刻なものではあるが極めて低頻度で少なくとも歴史時代において経験したことがないような規模及び態様の自然災害の危険性(リスク)については、その発生の可能性が相応の根拠をもって示されない限り、建築規制を始めとして安全性確保の上で考慮されていないのが実情であり、このことは、この種の危険性(リスク)については無視し得るものとして容認するという社会通念の反映とみることができる」とあります。破局的噴火は被害があまりに甚大であり、リスクを無視しても容認されるのが社会通念であるから、グレーは黒ではなく、黒であることが示されない限りよいというのです。そして火山ガイドの方が不合理だとし、差止の請求を棄却しました。その後、松山地裁、広島地裁などで、この決定が踏襲されます。
(5)また決定は、原告の要求を「絶対的な安全性」だと決めつけ、社会通念はそこまでは求めていないと否定し、要求する安全を一般防災のレベルに落としています。非常にずるいやり方だと思います。日本中が住めなくなるのだから放射能をまき散らしても構わないということにはならないし、何より、原発事故の重大さからして、その安全性を一般建築物より厳しくみるのは当然のことではないでしょうか。決定は、原発の安全を「別異に考える根拠はない」と言いますが、それも違うと思います。
(6)その後、2017年12月の広島高裁の抗告審決定は、伊方原発の差止を認めました。四国電力による阿蘇カルデラの破局的噴火の可能性が十分に小さいとの立証を否定したうえで、火山ガイドも社会通念が考慮されているとし、火山ガイドに従って立地不適としたのです。至極もっともな決定だと思います。
(7)そして規制委はその3か月後に「基本的な考え方」を示します。「巨大噴火は、広域的な地域に重大かつ深刻な災害を引き起こすものである一方、その発生の可能性は低頻度な事象である」「運用期間中に巨大噴火が発生する可能性は全くないとはいえない」としたうえで、「巨大噴火によるリスクは、社会通念上容認される」とし、「運用期間中に巨大噴火が発生する…根拠があるとはいえない場合は、…『可能性が十分に小さい』と判断できる」というものです。
(8)福岡高裁宮崎支部決定にすり寄るものですが、火山ガイドを不合理とはせず、解釈だけで骨抜きにしています。それは、宮崎支部決定が火山ガイドに代えて審査の拠り所とした親条文の基準規則6条ではあまりに無内容であり、稼働中の原発の許認可の前提が崩れるのを恐れたからだと思われます。
(9)そのため「可能性が十分小さいとはいえない」を「可能性が全くないとはいえない」に巧妙に言い換えるなどして体裁を取り繕ったうえで、最後はやはり、グレーは黒ではなく、黒であることが示されない限りはよいとしています。しかし原発の審査は、事業者と規制当局の二者の関係です。黒であることの立証を積極的に行う者は誰もいません。それに、「中・長期的な噴火予測の手法は確立していない」との専門家の共通認識に照らしても、巨大噴火について黒の立証などそもそも不可能なことは明らかです。事業者も規制当局も、実質的には何もしなくても、この問題で審査に落ちることはなくなります。グレーは黒の原則を捨てることは、規制の放棄を意味します。
(10)さらに、リスクを無視する対象を、こっそりと「破局的噴火」より噴火規模が一桁小さい「巨大噴火」にまで広げている点も問題です。破局的噴火の頻度は数万年に1回程度とされていますが、巨大噴火では数千年に1回程度となります。核燃料が存在する運用期間が長期にわたることを考慮すると決して低い頻度ではありません。九電が川内原発の火山影響評価において、運用期間中に発生しうる噴火として想定した約1万年前の「桜島薩摩噴火」も巨大噴火の規模でした。
(11)高松高裁や大分地裁、そして玄海原発仮処分の福岡高裁決定にみられるように、近頃では裁判所の側が、この「基本的な考え方」に寄りかかる姿勢をみせています。
(12)改めて、九電に伺いたいのですが、「原発には特段に厳しい安全が要求される」これは間違っていますか。国はどうでしょうか。そのつもりで、法令を定め、税金を投入して規制機関を設置し、厳格な審査のルールを定め、運用しているのではないですか。そのつもりで新規制基準を定め、耐震審査指針を改定し、火山ガイドを定めたのでないですか。
(13)裁判所はいかがでしょうか。裁判所には、電力会社や国が厳格にルールを守ることを求め、これを破ったり、勝手に緩めたりすることがないよう厳しい目でチェックすることが期待されていると思います。それがどうでしょうか。「絶対的な安全性」という言葉で、「予測できない」を「想定を超えた」と言い換える子どもだましのようなやり方で、安全のレベルを率先して落とすようなことを行うのはなぜでしょうか。
(14)私がこの点を強調するのは、先の東電刑事裁判の判決で、裁判所が同じ言葉を使ったからです。一般防災のための津波の長期予測が出て、日本原電や東北電力は対策して間に合わせた、東電も現場は対策に動いたが、最終段階で経営トップが止めた、結果、取り返しのつかない事故となった、これを裁判所が「絶対的な安全性」までは求めないとして無罪にしたのです。福島のみなさんは泣き崩れ、怒りに震えてます。なぜ裁判所が、安全のレベルを落とすようなことを率先して行うのか、私には全く理解できません。このままでは、裁判所が、次の原発重大事故を引き起こすことになりかねません。
(15)火山防災は遅れており、巨大噴火よりもさらに一桁小さい大規模噴火への対応が迫られています。一般建築物であれば、まずはそれに集中するというのでよいのかもしれません。しかし、原発はそうはいきません。九電が太陽光の電気を拒絶するのを認めてまで、審査基準を骨抜きにしてまで、原発を運転し続ける意味はあるのでしょうか。玄海原発の稼働を止めてください。これは「絶対的な安全性」の要求などではありません。この地で人々が安全に暮らしていくための当たり前の要求です。