4月24日、福岡高裁(久留島群一裁判長)にて、玄海原発控訴審口頭弁論(全基差止第10回と行政訴訟第9回)が開かれました。
福岡では天気も徐々に回復し、門前集会の頃には青空が広がっていました。この日も各地から原告や支援者の方々が福岡高裁に集まりました。久しぶりに参加される方や初参加の方も多く、有難かったです。また、「核のごみ」文献調査受け入れに反対の意思を示すため、玄海町に行かれた方もいました。
法廷では、私達控訴人側から「地震のばらつき」に関する準備書面を提出し、避難問題の専門家、上岡直見さんの尋問を求める申出をしました。被控訴人・国からも地震に関する書面提出がありました。
また、牧瀬昭子さんと西田由未子さんが、渾身の素晴らしい意見陳述をされました。
原発を止めるために鳥栖市議会議員になられた牧瀬さん。時折り涙で声を詰まらせ、切々と訴える牧瀬さんの姿に傍聴席から大きな拍手が沸き起こりました。(「静粛にしてください!」と即座に裁判長から大きな声で言われましたが。)
熊本県・山都町議の西田さんも、議員になる前から原発の危険性を訴えてきましたが、九電は「地震発生は1000年に一度位の可能性しかない」の一点張り。その後1年も経たないうちに熊本地震が発生。「道路はあちこち崩落、アスファルトの道がこんなに隆起し、ぐちゃぐちゃに」。能登半島地震でも電力会社の予想を超える事態が生じた、危険と隣り合わせの原発は一刻も早く止めるべきと訴えられました。(再び拍手が沸き起こり、裁判長から注意されました。)
報告集会では、陳述者2人の感想、弁護団による解説、記者質問と続きました。
その後、石丸代表から玄海町「核のごみ」文献調査に関する動きの報告。「4月4日に文献調査の受け入れを求める請願が玄海町議会で受理され、4月15日にマスコミを通じてこの問題が表面化。住民への説明もないまま、たった10人の議員で進めるやり方自体に問題がある。最終処分場の"地元"は玄海町だけではありません。事故が起きれば被害は広範囲に及びます。これから10万年、100万年と言われている核のごみ。子どもたちや未来の人達まで巻き込むことになります。一部の人だけで決めていい問題ではありません」。緊急の取り組みとして、玄海町への要望書提出等が提起され、意見交換を行いました。
さらに、避難計画・訓練の取り組みについても報告しあい、情報を共有しました。
次回控訴審は7月3日(水)です。上岡さんの尋問実現に期待したいと思います。
多くのみなさんの傍聴・注目をよろしくお願いします。
◆裁判書面(行政)
◆裁判書面(全基)
◆控訴人意見陳述
陳 述 書
2024年4月24日
佐賀県鳥栖市
牧瀬昭子
私は佐賀県鳥栖市に住んでいる牧瀬昭子と申します。鳥栖市でたこ焼き屋を夫と一緒に営んで参りました。しかし、2011年3月11日、東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所の原発事故が起きてから、私の生活は一変してしまいました。
原子力発電という事を初めて私が認識したのは、幼い頃、母とスーパーで買い物について行った時だったと思います。母が大好きなチーズを買おうかどうかとても迷っていました。どうしてそんなに迷うの?と聞くと、「このチーズを作っている近くで原子力発電所の事故があったから大丈夫かな・・・」と言っていた映像が頭にこびりついていました。
私が通っていた久留米市の小中学校では必ず8月6日に広島の原爆の日の学習会が行われていました。一番脳裏に焼き付いているのが、お話を聞く体育館までの廊下貼られている被曝した子どもの背中の写真です。皮がめくれ、焼きただれ、ウミと蛆虫が湧いている子どもが横たわっていて、生きている。恐ろしくて、おぞましくて、目を覆いたかった。怖くて怖くて早く見ないようにして通りたかった。だけど、そこに自分と同じ年の子どもがこんな目に遭わされている。怒りと恐怖が入り混じっていました。
父と母は小学校の教員をしていました。「二度と子ども達を戦場に送るな」との思いで教職員生活を送っていました。だから、原爆や放射能の恐ろしさは伝えてきたのに、同じ材料である、原子力を使っている原子力発電についての危険性を知ろうとしなかったのか、原発は平和利用だと思い込もうとしてきた事を3.11後、大変後悔していました。父は膵臓癌で余命幾ばくかでしたが、その命のかぎり、最後の最後まで仲間と原発を止める活動や原発の恐ろしさを伝える活動をし続けました。
父と同じように、私の中にも後悔の気持ちがありました。国際協力や市民活動に携わる中で、原発のゴミは放射能で溢れ、どこにもいきようがないこと。再利用すればするほど、放射能の濃度も量も人間の手ではどうしようもなくなること。
それは知っていたのに、2011年3月11日まで、何もしようとはしてこなかった。自分で知ろうとしなかった、嫌だなと思っていたのに、嫌だ、もうやめて欲しいと言ってこなかった、そんな自分に怒りがあります。どうしてわかっていたのに、止めようとしなかったの、言えたのに、言ってこなかったの、今言わないといつ言うの。そんな気持ちが溢れかえりました。
だから、それから原発についての講演会があれば行き、学び、反対の声をあげる集会やデモがあれば行き、そんな時に、福島や関東から家族や単身で鳥栖市に避難しに来られた方々、鳥栖市で反原発や平和活動をし続けて来た方々に出会いました。
福島の方からは、福島を助けて欲しい、福島に帰りたいけど帰れない、津波で流された両親を探したいけど、放射線量が高すぎて入れない、家族を置いて、仲間をおいて来てしまったという裏切ったような気持ち、九州の人たちには同じ思いをして欲しくない、そんな声を聞かせてもらいました。そこからは、原発を止めて欲しいという活動とあわせて、地元の鳥栖市で出来る事をやろうと農薬を使わずに作った野菜を福島県に送ったり、市役所にある放射線測定器を誰にでも見えるようにして欲しいと働きかけたり、原子力災害避難計画を鳥栖市でも作る必要があると意見書を出したり、原発を止めて再生可能エネルギー100%のまちを市民で作っていったドイツのシェーナウのドキュメンタリー映画の上映会を開いたりしてきました。福島から避難してきた方が国政選挙で原発反対を避難者の思いを訴えると応援をしてきました。でも一向に原発は止まらない。もうどうしていいのかわからない!と苛立ちと突破口を求めていました。
そんな時、シェーナウという町を自分の目で見てきたい、そしてここに私の希望があると思い、シェーナウを訪ね、中心的に活動された方にもお会いすることができました。原発を止められない日本に対する絶望感があること、そしてシェーナウに希望をもらった事にお礼が言いたかったと言うと、「とにかく仲間と続けることだよ、一つ一つ積み上げる事、うまく行ってもいかなくても仲間を大事に、最後に乾杯!」とビアグラスを高く掲げるしぐさでニカッと力強く笑いかけて下さいました。
原発を止めるためだったら、私の出来ることは何でもしようと心に決めました。だから、人前で話すことは苦手だし、震えるし、感情的になるし、すぐに涙がこみ上げてくるから、私には絶対に向いてないと思いましたが、「佐賀の一番端っこからでも『原発は怖いから要りません、止めてください』」という議員が必要、本当に止めたいんでしょ?と言われたら、私には選挙に出るしかありませんでした。原発を止めたいと思っている方々が応援してくださり、鳥栖市議会議員となることが出来ました。現在2期目です。原発を止めるために議員になりました。だから、私は原発が止まるまで「原発を止めてください」と言い続けます。2011年3月11日まで原発について何も言って来なかった自分への怒りと懺悔の気持ちが全ての源です。
裁判長、どうか私たちを助けてください。私たちに力を貸してください。どんなに原発に賛成でも放射能の中では生物は生きていけません。だから、原発を止めてください。この絶望的な世界に希望の光をさし込んでください。
大切な大切なこの裁判で、この思いを伝えさせてもらう時間を頂けた事に感謝申し上げ、意見陳述を終わります。本当にありがとうございました。
陳 述 書
2024年4月24日
熊本県上益城郡山都町
西田由未子
私は、熊本県の中央部の山間部にあります山都町在住の西田由未子と申します。 今回私の意見を述べる機会をいただき、ありがとうございます。
2011年3月11日のフクシマ原発事故以来、山都町には「できるだけ西 へ、そして自然豊かな地へ」と避難、移住されてくる方々が多くおられました。2015年8月、原発がなくても電気は足りていたのに、多くの反対の中、鹿児島の川内原発が再稼働されてしまいました。私は「原発再稼働を考える山都町民の会」の代表となり、「川内原発再稼働に伴い、九電に対し住民説明会を求める陳情書」を山都町議会に提出しました。 山都町は川内原発、玄海原発から約150キロの地点にあります。2014年 の福井地裁における大飯原発差し止め命令判決の中で「危険の及ぶ範囲 250キロメートル圏内の居住者の差し止め請求権」を認めており、山都町もひとたび事故が起きれば危険が及ぶ恐れがあるということで全会一 致で陳情採択となりました。 その後議会からの要請を受け、九電から山都町の住民に対し2回の説明会が開かれました。その中で私たちは「地震発生の危険性」を再三訴えましたが、九電側は「1000年に一度位の可能性しかない、心配いらない」の一点張りでした。
しかしその後1年も経たない2016年4月14、16日に震度7を2回も記録する熊本地震が起きたのです。山は大きく崩れ、大きな岩石が道を塞ぎ、道路はあちこち崩落、寸断され、阿蘇大橋までが崩れ落ちました。断層上にあった家はおもちゃのようにひっくり返り、2階建ての家は1階を押し潰しました。アスファルトの道が、こんなに隆起し、ぐちゃぐちゃになるものなのかと驚きました。そして続く余震の中(3ヶ月で1888回)昨日はなんとか通れた道も次の日は崩れて通れないということもありました。こんな状況の中、避難したくてもできなかった人、なんとか崩れずに済んだ家も、余震がこわくて家の中に入れず車中泊を続けた人がたくさんいました。余震が重なることで、被害状況がひどくなる現実もありました。それを思うと、原発の配管の損傷が心配でなりません。その上に水がない、電気がこない、情報が入り乱れ不安が増す、まさに能登半島地震の今と同じでした。
このような状況下で、もし原発事故が起きていたら避難計画など絵に書いた餅でしかありません。逃げられない現実がそこにありました。
能登半島地震では志賀原発の耐震基準は1000ガルだったはずなのに、 399ガルで変圧器の異常を起こしています。今回の地震では海岸が4メートル 隆起したところもあり、北陸電力の隆起の予想20センチを大きく上回 っています。海水の取水口は水深6.2メートルですが、「発電所の安全に問題ない」と強調する電力会社の姿勢には大きな疑問があります。玄海原発の地震による隆起の予想は2センチだそうですが、2024年3月 13日の東京新聞には、想定の妥当性が問われるとの見解が示されています。
このように地震列島の海側に作られた原発は、いつも危険と隣り合わせです。停止中であっても冷やし続けなければならないため、電源と海水の取水が無ければ、福島原発事故と同じようになったかもしれません。いつも「想定外」のことが起き、今回もなんとか大事故にならなかったというだけに過ぎないと強く感じています。
私は3、11後避難されて来た方たちや浪江町で被災された方との出会い、そしてこの裁判の会との出会いに強く背中を押されてこの場に立っています。浪江の友人からは、請戸で助けを求める声を聞きながら放射能汚染のため 救助に行けなかった無念さ、その後故郷に帰れない怒りの声を聞きました。山都町に来られたのは秋の収穫時期でしたが、農業をされていた友人夫婦は「久しぶりに稲に、土に、果物に触れた」と愛おしい様子で触っておられました。「大好きな柿を4年ぶりに食べられる」と、皮ごとむしゃぶ りつくように食べられる姿が目に焼き付いて離れません。「原発事故で暮らしやふるさと、自然を奪われるのは私たちで最後にしたいんだ」と強く訴える姿も忘れられません。
そして今なお、政府が出した原子力緊急事態宣言は解除されていないのです。 玄海原発プルサーマルと全基をみんなで止める裁判の会作成のフクシマ 原発事故時の放射能拡散の様子を玄海原発に重ねたシミュ レーション動画によりますと 放射能汚染は九州を総なめにして、日本列島を北上していくのです。西風に煽られ、九州全体、ひいては日本列島全体が放射能で汚染され、とりかえしのつかない事態となってしまいます。どうか全ての原発を一刻も早く停止し、廃炉にしてくださいますよう、心からお願いいたします。