10月2日、福岡高裁(久留島群一裁判長)にて、玄海原発控訴審口頭弁論(全基差止第12回と行政訴訟第11回)が開かれました。
雨模様でしたが、門前集会前には降りやみ、各地から傍聴に集まった原告・支援者、午前中から福岡入りされた弁護団とともに、集会で裁判勝利へ向けた思いを共有し、ともに入廷しました。
行政訴訟では、大牟田の樋口茂敏さんが意見陳述。樋口さんは仲間と無農薬の米・野菜づくりをしながら、3.11後は福島の方達への支援活動を続けて来られた経験から、「生命を支える農林漁業に対する差別意識が、原発を支えてきたのではないか」と、訴えました。
全基差止では、避難問題の専門家で、控訴人でもある上岡直見さん(環境経済研究所代表)の本人尋問が行われました。
上岡さんにはこれまで3つの意見書・陳述書を提出いただいていました。今年9月作成の陳述書では、1月に起きた能登半島地震の状況を踏まえ、避難の実効性を詳細に検討しています。
主尋問では谷次郎弁護士の質問に対して、能登で起きた地盤隆起、道路通行止め、家屋の倒壊・損傷、停電・通信インフラの途絶などの現実を写真と数字で具体的に示しながら、「以前から懸念していたことが、能登半島で起きてしまった。避難計画に実効性がないことがあらためて確認された」と話されました。
一方、反対尋問で九電側弁護士は「情報伝達体制が構築され、災害情報はあらゆる手段で広報されることになっているのは知っているか?」「避難先が一覧になっている『てびき』がつくられ、佐賀県民に配布されているのは知っているか」などと質問。上岡さんが「記述があることは確認しているが、実際には役立たなかった」と答えると、「聞かれたことだけに答えてください」と口封じ。避難問題を具体的にはほとんど知らない九電らしい薄っぺらい質問に終始しました。裁判長はこのやりとりをどう受け取ったでしょうか。
次回12月11日(水)、控訴人の小山英之さんが地震動について法廷でプレゼンを行います。
そして、来年4月23日(水)の法廷をはさみ、7月15日(火)結審の見通しが裁判長から示されました。
2025年度末までの判決が見込まれ、裁判も大詰めとなってきました。
住民の命と暮らしを守るため、勝利へ向けて、みなさん、引き続きのご支援、ご注目をお願いします!
【次回控訴審(福岡高裁)期日】
◆12月11日(水)
12:15 集合
12:30 門前集会
13:30 行政訴訟第12回弁論 福岡高裁101号法廷
プレゼンテーション:地震動について(小山英之・控訴人)
15:00 全基差止第13回弁論 福岡高裁101号法廷
16:30 記者会見・報告集会 福岡県弁護士会館
◆2025年4月23日(水)14:30行政 15:00全基(時間変更の可能性あり)
◆2025年7月15日(火)14:30行政 15:00全基 <いずれも 結審予定>
◆裁判書面(行政)
◆裁判書面(全基)
◆控訴人意見陳述
陳 述 書
2024年10月2日
福岡県大牟田市
樋口茂敏
大牟田市からまいりました樋口茂敏です。78歳。後期高齢者です。
私は以前高等学校の教員をしておりましたが、在職中の2003年から、市内の中山間地である櫟(いち)野(の)という地域で有機農業に取り組んでいる友人の農家の下で、消費者が農作業を楽しむグループとして「いちのたんぼの会」を立ち上げました。無農薬・無化学肥料で米や野菜を育てています。田んぼの中から世の中を眺めてみますと、見えなかったものが見えてくることもあります。特に中山間地では、農作業が国土の保全を支えています。農業後継者がいない、耕作放棄地が増え、食料自給率が40%を下回るという危機的な状況にあっても、「食べ物は外国から輸入すればいい」などと言う能天気な政治家や専門家がいる。いったい世の中はどうなるのだろうと暗澹たる気分になることもあります。
そんな中で2011年3月11日を迎えました。東京電力福島第一原発の事故の状況が刻々と伝えられていましたが、専門家は「大きな事故にはならないだろう」と解説していました。私は原発の危険性について書物などを読んではいましたが、この時はそうであって欲しいという願望も含めて、どこかで収束するだろうと考えていました。けれどもご承知の通りの結果でした。私も安全神話に囚われていたわけで、この私自身の「いい加減さ」を見つめ直すことから、私の3.11は始まりました。
3月24日、政府が福島県産野菜の摂取制限を発表した翌日、福島県須賀川市で、野菜農家の男性が自ら命を絶ったことが報道されました。彼は有機栽培農家で、地元の小学校の給食のキャベツは彼が提供していたそうです。一生懸命土作りをし、丹精込めて育ててきた畑が放射能で汚染された時、彼の絶望はどれだけ深かったか。その後も相馬市の酪農家が、小屋の壁にチョークで「原発さえなければ」と書き置きして自殺されたことが報道されました。
この人たちは被害者です。被害者が自ら命を絶ち、加害者が責任を取ろうとしない。何という世の中なのか。私は何をしなければならないのか。私にできることは何か。
まずは原子力発電について勉強し直そうと思いました。仲間たちに呼びかけて、実行委員会を作り、京都大学原子炉実験所の今中哲二先生をお呼びする講演会を企画しました。これを機に、連続講座「原子力発電と私たちのくらし」を開催してきました。この講座では、可能な限り福島の人をお呼びしました。第4回講座にお招きしたのは、二本松市のお寺の坊守、住職のお連れ合いの方でした。食べ物には細心の注意を払っていたはずなのに、お子さんの尿からセシウムが検出された。それで寺が経営する幼稚園は全国の同じ宗派のお寺から米や野菜を送ってもらい、園児のお母さんたちが給食を作って、残った食材は青空市として地域の人たちに配っているということでした。協力できると思いました。月100円の会費で会員を募り、毎月10日の青空市に無農薬野菜を送る。幼稚園のお母さんたちは自らをハハレンジャーと呼んでいましたので、遊び心で会の名前をオクルンジャーとしました。2013年6月から、ハハレンジャーが活動を一旦停止する2016年3月迄、毎月送らせていただきました。
もう一つだけお話します。山口県の上関原発の建設をめぐって、対岸の祝島の人たちが漁業補償の受け取りを拒否しながら30年以上反対運動を続けています。その記録「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画を見ました。島の生活が淡々と記録されていましたが、中国電力が埋め立て予定地にブイを設置する、それを阻止するために漁民たちが船を繋いで阻止線を張るという緊迫した場面がありました。その時作業船から、中国電力の社員がマイクでこんなことを言う。「30年間反対運動をしてきて、祝島はどうなったか。高齢化が進んで、島の人口は減って、これで成り立っていくのか。一次産業に未来はあるのか」。私はその時ずいぶん腹を立てたのですが、後になって考えてみるとあの中電社員の姿は、かつての自分ではないか。
私は工学部の工業化学科を卒業しています。あの時代に工学部に進んだ者の多くは、国の発展を支えるのはものづくり、工業だと信じていたと思います。それはそれでいいのですが、その裏返しとして、農業や漁業、林業などの自然を相手にする一次産業を遅れたものとする意識があったのではないか。生命を支える基礎的な産業なのに、です。皆とは言いませんが、私もそうでした。その差別意識が、水俣病をはじめとする公害を生み、そして原子力発電を支えてきたのだと思います。
これは、この場にいるすべての人に一緒に考えていただきたいことですが、私が原子力発電を今すぐにでもやめるべきだと考えている最も大きな理由は、発電によって生じる高レベル放射性廃棄物の問題です。どこに貯蔵するにせよ、放射能が減衰するためにはただひたすら時間をかけなければなりません。その時間は10万年と言われています。10万年とは如何なる歳月でしょうか。10万年前、地球上には我々の祖先であるホモ・サピエンスと共にネアンデルタール人が共存していました。人類史の中では瞬間でしかない40年の間に作ったごみの管理を、延々と後の世代に押し付けるのはどう考えても間違っています。
アメリカ先住民のイロコイ族には「1本の木を切る時でも、それが7世代先の子孫のためになるか、困らないかを考えるべきだ」という言葉があるそうです。学ぶべきだと思います。そして「今だけ、金だけ、自分だけ」の世の中を変えていかなければ、本当にこの国の未来はないのではないか。そう思っています。
終ります。ありがとうございました。