第9回口頭弁論公判(2016年4月22日)における意見陳述です。
1.
このたび、本法廷において意見陳述の機会をいただきました吉森康隆と申します。68歳です。1947年吉森養蜂場創立の年に生まれました。
唐津市の山手に住んで、この40年間養蜂業を生業とし、生計を立ててまいりました。食べ物を作る、いわば第一次産業の立場からプルサーマルを含む、原子力発電についての私の思いをこの機会に述べさせていただきます。
養蜂場ではさまざまな蜂蜜を取り扱っています。春から夏にかけて菜の花、れんげ、みかんの花や自然林の花、つまり樹木の花からミツバチは蜜を集めます。循環する農業と里山によってこの仕事は支えられておりますが、一方、花粉交配によって農業を支えている、とも言うことができます。つまり農業とは共存共栄であるということです。近年環境破壊や農薬の影響によりミツバチは減少していますが、ミツバチの飛び交う環境は、人間にとっても住みやすい環境である言って良いと思います。
私の仕事はこの緑の環境と水と農、それらを土台として成り立つものです。
日々の作業を続けながらこの地域が持続可能であり、この仕事がこの先も続けていけるよう願いながらの毎日です。
東京電力福島第一原発事故では、その自然と農が壊されてしまいました。事故から5年が経とうとする今も、又、この先何十年にもわたって放射能の被害は続く事でしょう。
2.
私の働く現場から玄海原発が見えています。経済、そしてエネルギー優先の光景が、棚田という、人が遠い時間をかけて作りあげてきた風景の向こうにそびえたっています。
福島原発事故後、福島では野菜農家が自ら命を絶ちました。そして私と同じ畜産農家のひとりもまた同じ運命を辿りました。同じ食べ物を作る立場である私にとって他人事とは到底思えません。直接的には我々農家が影響を受けることになるのでしょうが、その影響は食べ物を通して日本のみならず世界中に広がってしまうことになります。
食べ物によって取り込まれた放射能はその種類によって体の各部位に蓄積します。放射能を含んだ落ち葉がそこにあったとしても通り過ぎれば、その場では被曝は少なくて済むかもしれませんが、放射能がいったん口や鼻から体に取り込まれると、一定期間体のその場にとどまり、至近距離で放射線を出し続けます。
放射線が染色体や体の細胞を傷つけ、さまざまな疾患の原因になることは今や広く知られているところです。子供たちへの影響は大人の数倍とも言われさらに重大さを増して行くことでしょう。
3.
1986年のチェルノブイリの事故後、日本のさまざまな食品流通機関により放射能が水際でチェックされていたのを、我々は忘れていません。
風や水といったものだけではなく、市場原理によっても放射能は拡散することを我々は見てきました。汚染食品が安く買い叩かれ流通してしまうこともありうることでしょう。産地が偽装されたり隠されたりしていた事実も報道されておりました。
さて日本での現状はどうでしょう。
水道水は福島原発事故前の放射線量が、0.00004Bq/L(※)だったのに対し、10Bq/L(25万倍)が基準とされ、お米は事故前の放射線量が0.0124Bq/Lだったのに対し、事故後100Bq/L(8300倍)が基準だと、国民が知らないうちに決められていました。こんな状態で毎日の買い物ひとつにも産地は一体どこなのか、と神経質にならざるを得ません。
命を軽んじた経済復興に何の意味があるのだろう、というのが私の率直な思いです。
4.
最近、仕事での技術交流のためアジアに行く機会を得ました。印象深かったのは日本にも影響が及んでいる大陸の公害の霞がヒマラヤも覆い隠すほどアジア全体を覆っていることでした。翻ってわが国の福島原発事故の対処、その後のあり方に思いが及び呆然としました.福島では多くの放射能が太平洋に落ちました。偏西風を通じ、又海流を通じて他の国に迷惑をかけ続けているのが現状です。他の国をとやかく言える立場ではありません。
5.
玄海原発で事故が起きれば、私の生きる基盤である唐津の海、山、大地は奪われてしまうことでしょう。私はこれからもみつばちを伴侶として暮していけるよう願っています。地道に農に生きる者の人格権をどうぞ守ってください。
私は今、司法のみがこの国を立て直すことができると信じています。どういった力にも影響を受けず歴史を立て直す判断の力です。それは生命の側に寄り添った、やさしくも力強いものに相違ありません。
自然と農、すなわち命のための判断を下されるようお願いして、陳述を終わります。
(※)セシウム137 の値。福島原発事故前は明確な基準値がなく、全国の食品のセシウム平均値が示されている。事故後は厚生労働省の平成24 年度基準値。
出典:日本分析センター平成20 年度事業報告書
http://www.jcac.or.jp/uploaded/attachment/57.pdf
陳 述 書
2015年11月20日
佐賀地方裁判所 御中
住所 福島県郡山市
氏名 橋本 あき
1.私は福島県郡山市在住の橋本あきと申します。郡山市生まれで、あの年までどこへも移住を考えたことはありませんでした。
私は若いころは政治的なことにはまったく興味も関心もなく、福島に原発が建っていることさえわかりませんでした。今のように関心が高まってきたのは子どもが産まれてからのことでした。1991年1月、湾岸戦争の時「生まれてくるわが子が戦争に巻き込まれる」「平和なはずの日本が戦争になったらこの子は無事に育てられるのだろうか」と、心配しつつ毎日のニュースや新聞に目を通すことになりました。それにやっと生まれたわが子は酷い乾燥肌で生まれてきたことが、社会的に関心を持つきっかけになりました。
当時は県営団地に住んでいました。そこには環境破壊、食物アレルギー、電磁波などに詳しい人たちがいて一緒に勉強するようになり、その中で原発が福島にあることを知り学ぶようになりました。1999年の東海村JCO臨界事故の時は「福島県は遠く離れているから大丈夫」なんて愚かなことを考えていました。やはりこの事故がより一層「原発は危険なモノ」と意識し始めた頃でした。
その年にささやかなマイホームを建て念願の家庭菜園を始めました。日立地所が開発名目で山をならし切り売りしていた山土だらけで草一本生えていない不毛な庭でした。化学肥料は使わず、EM菌で土改良に3年位かかりました。春には色んな芽吹きが楽しくて、何でもEMバケツに放り込み土に返していました。勝手に生えてくるトマトやジャガイモ、いつの日か小鳥が運んだのだろうかニラも根付き、それも食べていました。そんな平穏な年が続いていました。
2.2011年3月11日は娘が孫を産んで帯明け間もなく、自宅で安穏と過ごしていました。午後2時46分、大地震が来ました。電気は点いていましたが、ガスと水道が止まり、ついで東京電力福島第1原発の爆発事故が起こりました。放射性物質が県内外に飛び散り土も水も空気も汚染されてしまいました。私の小さな菜園も汚染されて何もかも食べられなくなりました。私の規模はほんの少しですが、農業で生計を立てている人たちは一瞬にして何代も続いて守ってきた田んぼや畑が汚染されました。臭いも味も色もない放射能が東日本中にふりかかりました。
いつ頃かは忘れましたが県内市内の放射能の数値が毎日報道されるようになりました。うちは郡山でも東部地区なので幾分低い安全地区だと言われていましたが、果たしてどの位なのか不安になりましたが測る手立てがありませんでした。しばらくしてから無料でガイガーカウンターを貸出しているレンタルショップのことを知り、自宅を測りました。
2011年7月11日の記録では―― 庭0.65μSv/h、玄関0.41μSv/h、雨どい1.1μSv/h、西側空き地0.86μSv/h、居間0.33μSv/h。(先日、知人が佐賀地裁前で測ったら0.06μSv/hだったそうですが、原発事故がなければ0.1μSv/h 以下と言われています)
確かに郡山市中心地よりは低いなと、ちょっと愚かな安心をしました。家の中の平均0.3μSv/hを見れば、赤ちゃんをここに置くわけにはいかないと悩みましたが、すぐには避難できないいろんな事情も加わり泣く泣く被曝してもここで暮らしていこうと決めました。でもそんな毎日を暮らしていても、「這えば歩めの親心」という言葉がありますように、赤ちゃんがハイハイをして立ち歩く過程を考えれば、こんな異常な土地で育てることは許せないことであり人格形成にも支障があるのではないか、早く娘親子を避難させたいと強く思っていましたが、やっと転機が訪れたのは2012年1月、娘と孫は福岡へ避難することになり現在に至っております。
3.4年と8ヶ月過ぎた今でも除染が各地で行われていますが未だに放射性物質が入れられたフレコンバッグはそのまま街のあちこちにただ置かれています。
私は郡山駅交番前で「原発再稼働反対の1人デモ」をたまにしています。ポスターを掲げ1時間のサイレントスタンディングで、ガイガーカウンターを地上1m位に持ち立ちます。今でも0.3~0.6μSv/h前後はあります.(樹木の根っこは約1.2μSv/h)。ちょっと離れた駅前広場に置かれているモニタリングポストは最近では約0.20μSv/hの表示です。郡山駅近くの空き地にもいつの間にかフレコンバッグが置かれ仰々しいカバーがつけられた場所もあります。同じ敷地のすぐ隣では老人たちが楽しそうにゲートボールをしている姿も見受けられます。最終処分場も決まらず自宅の庭先にそのようなものが置かれていること自体が異常地帯である証拠であり、恐怖の代物なのです。
郡山駅東側には広さが1900㎡の「ペップキッズこおりやま」という子どもたちが室内で遊べるホールがあります。2011年12月にこの地で子育てをして生きていく選択をした親たちの要望で作られました。学校の校庭や公園で遊べない子どもたちが整理券を貰い、時間を区切られ、管理されて遊ぶさまは異様な空間でした。ここを中心に郡山の東西南北4か所に同じような規模のホールが作られる予定でしたが、去年の暮れに
≪ 復興のじゃまになる・お金がない ≫ ということで消えてしまいました。私は作るべきか否かは言えませんが、これも放射能さえなかったらと思う悲しい出来事でした。
4.当時の福島県内のテレビは津波で被災された方々のニュース、官房長官の「原発事故はただちに影響はない」が主で、福島がどうなっているのか地元に住んでいてもほとんどの情報はありませんでした。ガソリンがない、道路が陥没してあちこちが通行止め、物流がストップなのでスーパーやコンビニには品物がない、その合間に大小さまざまな余震もあり落ち着かない日々が続いていました。私は津波や原発立地の強制避難させられている人たちに比べると自宅で暖をとれているので贅沢をいえないとさえ思い、原発の勉強をしているつもりでいても実際すぐに動けなかったことは、自分の判断力と決断力に欠けていたと恥ずかしい悔しい思いもあります。
今、九州電力玄海原発の再稼働の囁きが聞こえてきていますが、いっとき原発事故が起これば九州全土や四国、山陰地方まで放射能に汚染され、避難する場所も時間もないのではないでしょうか。
日常的なことですが想像してください。洗濯物やふとんは外に干せない、外出するときはマスクをする、靴は帰宅の度に底を洗う、窓は閉め切る、換気扇や掃除機は使わない、極めつけは子どもは外で遊ばせない、等々の指示が発せられることを。
先日11月1日の福島民報に「原発再稼働で1基最大25億円、経産省が新交付金」との記事がありました。立地自治体へ交付金を手厚くすることで再稼働に対する地元の同意判断を促す狙いがある、と。これほど福島をバカにした政策はないでしょう、お金の使い方が間違っています。原発を進める方にはお金を切れ目なく使い、子どもたちを守る方の健康被害や避難の権利も無視し続けている現状を何故、思慮深くしないのでしょうか。
今、東電福島原発がもたらしている事件をやっと起訴できた福島原発告訴団、廃炉作業問題、焼却炉問題、地層処分問題、住民分断など何一つ解決できない現状から見ても玄海原発の再稼働はありえません、即刻止めるべきです。第2のフクシマを作ってはいけません。福島を繰り返してはなりません。私たちのような被害を受ける県を作ってはいけません。
原発事故が起きれば政府や国は責任をとらない、嘘をつくのは常套手段であることは東電福島事故事件がうらづけています。どうぞ裁判官のみなさま、感慨深い判断をお願いいたします。
以上
陳述書
佐賀地方裁判所御中
2015年9月11日
住所 京都市
氏名 アイリーン・美緒子・スミス
私はアイリーン・美緒子・スミスです。京都市の市民団体、グリーン・アクションの代表です。年齢は65才です。佐賀県の玄海原発でMOX燃料の使用が計画されていると発表された2004年頃から、佐賀県に来るようになりました。
1. 私の第二の古里は、九州です。今でも九州に渡るとほっとします。原発問題との関わりの原点も、九州です。
20代の始め、3年間水俣で暮らし、夫のユージン・スミスと水俣病の写真を撮っていました。その中で、一生忘れられない日があります。1973年3月20日です。水俣病患者の皆さんが、加害企業チッソを相手取った裁判で初めて勝利した日です。法廷の中で裁判官が判決文を読み、語った言葉は一生忘れることはありません。判決要旨には次のように書かれています。「・・・安全性に疑念を生じた場合には直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、とくに地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するものといわなければならない。」この日、司法の重要性、ありがたさを心の底から感じました。この体験は、私の人生と仕事を毎日支えています。
この陳述で語る内容は、全て私が体験したことです。正直に、ありのまま語ります。
2. 1999年、関西電力高浜原発4号機のMOX燃料の装荷前、英国のBNFL社のMOX燃料製造施設MDFで、品質保証の不正・ねつ造が行われたことを市民と弁護士などが中心になり、暴きました。私はその市民の追及に大きく係わっていました。この経験を通して確信したことは、情報公開が肝心かなめであるということです。
関西電力と国は、品質保証データに不正・ねつ造があったことについての情報を入手していても、それを当事者の市民や自治体から隠し通そうとしました。国が隠していた事実は、国会の委員会の尋問で議員の追及によりあばかれ、証明されています。関西電力が隠した事も証明されています。しかし、今にいたっても、国も関西電力もこのことについて一言も詫びていません。
3. 玄海3号機ではMOX燃料を使用することになっています。裁判ではMOX燃料については別裁判になっていますが、玄海3号機が動くということはMOX燃料がたかれるということですので、その関係でも発言します。このMOX燃料を製造しているメロックス工場はアレバ社(アレヴァエヌシー)の施設です。この燃料の品質は、公正な当局の監視もなければ、必要な品質保証データの公開もありません。フランスの市民団体とグリーン・アクションが協力して得た、フランスの原子力安全局ASNの2010年3月31日に発行された書簡には、「ASNは、日本向けの製造品質の監督には従事しておりません。」と書かれています。一方、日本政府のいわば「監督」は品質保証の生データにアクセス出来ない中で行われており、監督にならず、玄海原発3号機のMOX燃料の品質を保証するものではまったくありません。
顧客である関西電力に生データを要求しても、アレバ社から品質保証に関する生データは入手出来ないと言われました。アレバ社は、自分の顧客にすらこのデータを公開しないのです。この会社は歴史的にフランスの核兵器のプルトニウム供給に長年携わってきており、秘密主義が濃厚な会社です。
いったいどのような品質のものが玄海原発3号機に装荷されているか、アレバ社しか知りません。九州電力は、多くの住民を巻き込んで福島事故後も、得体の知れない燃料の利用を続投しようとしているのです。
アレバ社は最近、品質保証の欠落で国際的に大問題を引き起こしています。自社が製造した幾つもの原子炉圧力容器の材質が不良品であることが発覚されたのです。フランスの原子力安全局ASNの審査プロセスにより品質の欠落が見つかったのは、深刻なことに、建設中の原発に設置された後でした。
アレバ社はMOX燃料に関して、今まで日本側からウラン燃料と同様の品質を要求されても、それでは不合格ロットの頻度が高くなることが予想されるとし、要求を拒否しています。このように、アレバ社で作られた玄海原発3号機のMOX燃料の品質は、深く憂慮すべきものです。
4. さらに、MOX燃料は使用済燃料プールとの関係でも深刻です。
今年の7月21日、米国の「憂慮する科学者同盟」の上級科学者で佐賀にも来ている、エドゥィン・S.ライマン博士が福井県の高浜町を訪れて下さり、高浜原発のMOX燃料利用に関して、高浜町の防災安全課の課長と会って下さいました。博士は、MOX燃料の安全性について、数多くの未解明問題があり、もっと研究が必要だと訴えました。そして日本の原子力規制委員会は福島事故の教訓に耳を傾け、情報のない中で、日本でのMOX燃料使用を認可してしまうことのないようすべきであると熱心に語りました。
私にとって特に響いている内容があります。日本の規制当局がMOX燃料に関して1998年に認可を下ろした後、事故時のMOX燃料の振舞いに関する実験などが国際的に行われていることを博士は紹介し、にもかかわらず、当局はこれらを考慮せず、MOX燃料の使用を進めようとしていると言ったことです。
ライマン博士は、憂慮する科学者同盟が最近情報公開法に基づく請求を行った結果公開された米国政府の2011年3月25日日付の資料も紹介しました。それは3月11日直後、米国政府は福島事故が最悪の展開をした場合、東京の米国大使館を始め米国市民の避難がどのように必要になるかについて、サンディア国立研究所に分析を依頼したときの内容です。公開されたのは、使用済み燃料プールが破壊される最悪事故になれば、首都圏まで巻き込む驚異的な広さの地域が避難しなければいけないことがわかる地図等でした。
福島事故の一つの教訓は、使用済み燃料プール事故の恐怖です。博士は資料に基づいて、使用済み燃料プールに使用済みMOX燃料が多く入っている状態でプールの冷却水喪失事故が起こった場合、普通のウランの使用済み燃料の場合より速く対策を取らなければ大惨事へと進む、つまり大惨事が起こり出すまでの時間がもっと短いのだと説明しました。情報公開された米国政府の資料にも、使用済みウランと使用済みMOX燃料の比較研究を行うよう提言が書かれています。
これを聞いた高浜町の防災安全課の課長が、炉の中のMOX燃料の危険性については聞いていたが、使用済み燃料プールの話は初めて聞いた、と発言したことがとても印象的でした。日本は福島事故が起きたのに、あまりにも国際的な最新情報を取り入れないまま、今プルサーマル利用に突入しようとしているのです。
企業が、営業されている地域で取るべき姿ではないと思います。とても心配です。
5. 2011年3月11日、福島原発事故の悲惨な状況をテレビで目撃したその瞬間、これからの40年、50年、そしてそのまた先の苦しみが頭の中を走りました。九州電力の玄海原発による事故被害、とりわけ3号機にはMOX燃料が使用されることにより起こりうる被害、その苦しみが起こらないよう絶対に未然に防ぎたい。その気持ちで私は今日この法廷に立っています。自分の立場から、原発の大事故が再び起こらないよう努力する義務があると思っています。後悔したくありません。一昨日2才になった孫の顔を見ながら痛感します
でも、裁判官、次の大事故を防ぐための人手が全然足りません。知識や社会的力を持つ人達のあまりにも多くが沈黙しています。
人々と自然を原発の運転再開からくる脅威から守って下さい。とりわけMOX燃料を使う3号機を動かさないようにしてMOX燃料利用の脅威から守ってください。後悔のない判決を出してください。誇れる判決を出して下さい。
以上
陳述書
佐賀地方裁判所御中
2015年9月11日
住所 佐賀県東松浦郡玄海町
氏名 青木 一
私は玄海町に住む青木一と言います。昭和13年1月生まれの77歳です。玄海原発から6キロほどの集落に住んでいます。玄海町の住民として誰かが言葉を出さなければいけないとの思いで、今日は陳述させていただきます。
1. 私は唐津市枝去木という集落の農家に生まれ、昭和33年に玄海町に来て、地元の商事会社に入社しました。
原発については、昭和50年には1号機が、56年には2号機が運転開始されました。1・2号機のそばに八田という内海がありますが、ここに原発の中を通ってきた冷却水が排出されます。この高温の排水で海水温がどんどん上がって、今まで釣れなかった魚がどんどん釣れるようになりました。隣の家のおじさん達も週に4回ぐらいは魚釣りに行って、ハマチとかボラとかチヌなどを釣っていました。
ところが1年のうちに、骨が曲がったり、目が片方なかったりという奇形魚が出るようになり、町民の中でも釣り人の中でも「原発は危なかぞ、原発の稼働で魚がこやんこつ、どんどん釣れよる」という話が飛び交うようになりました。原発の温排水に何か危険なものが混じっている、魚介類に影響しているのは間違いないと思いました。原発については、昭和50年には1号機が、56年には2号機が運転開始されました。
2. 3・4号機の増設の話が出てきた昭和53年頃、国が協力金を出すからということで、みんなが飛びつきました。町内では1戸あたり100万円ぐらいの協力金が全戸に交付されることになって、そのお金は町が管理して、部落の運営費などに使うことになりました。漁業関係者には漁業権の補償ということで1戸約1000万円がわたったと聞いています。子どもが1万円札をちらつかすような状況がありました。出稼ぎなどで町外で生活している人が、いったん玄海町に帰って、籍をおいて、漁業権をとって、協力金をもらうといったこともありました。悪質なエゴが生まれてしまいました。
交付金が来て、町は裕福になるかと思いましたが、公共事業でハコモノばかりがどんどん増える一方で、漁業は衰退していきました。
3. 玄海原発で事故が起きたらどうなるのでしょうか。
放射能はどこへでも風に乗って飛んでいきます。原発は町の北西の端にありますが、原発から吹いてくる北西の風、冬はこれが一番多いのです。春先から夏にかけては南風、秋から冬にかけては北風も西風も吹きます。西風なら、まっすぐ唐津、糸島、福岡方面に吹いて、唐津まで降りた風は海岸の北風にのって、佐賀方面に流れることもあります。上空に舞い上がった風が、西日本全域に流れることもあります。
爆発ということになれば、風に乗って、放射能は九州一円に広がり、どこに住んでいても被ばくを免れないと思います。県と町が避難計画をつくっていますが、万が一の時にどこへ逃げるのか、避難場所だけは確認しておこうと、今年4月に老人会でバスを貸切にして30キロ圏外の小城市の避難所まで研修旅行に行きました。参加メンバーに、玄海町から避難所まで車で逃げていけるかと聞いたら、「おいどんは、こやんか道路、行ったり来たり、人の後をついて行き来らん。逃げるぐらいなら、死んだ方がましたい。避難しなきゃならんなら、原発はつくらんほうがよかばい」と、みな口々に言っていました。
もしも大事故が起きたら、それは一企業である九州電力が起こした事故なのに、なぜ住民がふるさとを捨てて逃げなくてならないのか、理不尽きわまりないことだと思います。
かつて3・4号機の建設予定が打ち出された時、「それは反対しなければ」という声もあちこちの部落で飛び交いました。そうした中、町民の過半数の署名を集めれば交渉をもてるということで署名運動が展開されました。消防団の幹部で指導員をされていた、私より6歳下の青年が旗振り役となりました。私も消防団をやっていて、彼の言っていることはその通りだと思いましたが、仕事上、反対の行動には参加できませんでした。
中心で動いた彼は、増設決定後、町にいられなくなり、いつの間にかいなくなっていました。今どこにいるかも分かりません。そういう地域社会なのです。今、彼がどこかで生きているのなら、裁判でこうして訴えていることを応援してほしいと思っています。
町内では今なお、「原発はもういらない」という話をしても、仕事の関係などでそう言えない人、しっかりした判断をできずにそのまま聞き流してしまう人が多く、絶対反対と唱える人はなかなか出てこないのが現実なのです。
4. 2011年3月11日、福島原発事故が起きてしまいました。
玄海原発でも、もしも事故が起きたら、玄海町は人の住めない廃墟の村になってしまいます。仮に事故が起きなくとも、使用済み燃料をどこへ持っていくのかも決まっていません。全部廃炉となって、原子炉を取り壊すことになったとしても、近辺の数キロはお墓と同じで、もう誰も住めないのです。
長崎にはプルトニウム爆弾が落とされました。原爆で苦しんだ人類が、国策によって原子力の「平和利用」として、危険な原発、プルサーマルを続けてきました。しかし、原発はやめて、放射能を出さないエネルギーで電気をまかなえる状態をつくっていけばいいと思います。
私も「原子力の電気にたよらないで生きていけるよ」という証のために、2年前に太陽光パネルを設置しました。これであと10年、原子力をつかう九電にお世話にならずに生きていけます。「原発よ、さよなら」と言わせてもらいたいです。
本年1月、原発30キロ圏の伊万里市で八十路の女性が語りかけてきました。「あなたは玄海の人なら、ぜひ原発を止めてください。私は3.11以来、原発が怖くて眠れない日もあります」と。恐怖の心の病に悩む方でした。こうした人々は30キロ圏内だけではないと思います。人間だれしも心おきなく生活できる環境こそ最大に幸せです。
何卒、幾多の人々の苦心に応えて頂きますようお願い申し上げます。
以上
佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件
第2回口頭弁論(2014年4月18日)における意見陳述です。
意見陳述書
佐賀地方裁判所御中
2014年4月18日
住所 大分県豊後高田市
氏名 毛利卓哉
佐賀地方裁判所におかれましては、本日、この法廷に置いて意見陳述を行う機会を与えていただき、誠にありがとうございます。
私は現在、大分県に在住する毛利卓哉と申します。職業は著述業です。一九八二年から32年間に亘り、毛利甚八という筆名で、ルポルタージュ、インタビュー、漫画原作などの仕事をしてまいりました。フリーの原稿書きとして、いくつかの出版社から様々な依頼を受けて生活をしてきたのですが、主に環境問題、中央と地方の格差の問題、少年非行と更生の問題などを取材し、雑誌の記事や書籍の形で作品を発表して参りました。
また私の生家は玄海原子力発電所から約35kmの距離にある長崎県佐世保市にあり、現在、肉親が暮らしております。玄海原子力発電所の稼働の是非について、原発事故のリスクに関わる当事者の一人として、この裁判の原告に加わるべきと考えました。
二〇一一年三月十一日の東日本大震災がきっかけとなって起こった福島第一原発のメルトダウン事故まで、私は消極的な原発反対論者に過ぎませんでした。電気のためにわざわざ危険な原子力を利用する必要はあるのだろうか? そんな疑問は持っておりましたが、直接的な反対運動に参加したことはありません。
理由の一つは、原子力が危険であるという判断をするための情報が不足していたことでした。原子力発電所で破滅的な事故が起こる可能性について、自分自身の中で確信が持てない。そして、起こってもいない原子力災害の危険を言い募って、わざわざ社会に波風を立てる勇気はありませんでした。
理由の二つ目は、原子力発電にかかわる理系の技術者や科学者に対する漠然とした信頼感です。あのような巨大な科学技術を扱うエリートの人々は、自分とは桁違いの能力を持っているのだろうという思いを持っておりました。
以上のような理由づけをして、私は、原子力発電所の問題をそれとなく避けて暮らす、ごく平凡な、日和見主義者として生きていたのです。
ところが福島第一原発のメルトダウン事故をめぐる一連の政治家、東京電力幹部、科学者の言動を、報道を通じて知れば知るほどに、地位の高い人、賢いはずの人たちが原子力災害の対応について、具体的手順についても哲学的判断についてもまったく準備していなかったことが明らかになりました。
私は自分の故郷のそばにある玄海原子力発電所について、自分なりの理解をするべきだと考えました。そこで二〇一一年一〇月中旬から二〇一二年十二月までの約一年間、玄海町や唐津市、佐賀市にでかけ、図書館などで玄海町史、玄海町議会議事録、佐賀県の統計年報を調査しました。また、原発誘致時の町議会議員や反対運動をした人たち、岸本玄海町町長などにインタビューを試みました。そして二〇一三年四月に『九州独立計画 副題 玄海原発と九州のしあわせ』を講談社から出版しました。
この取材の結果、私は次のようなことを知りました。
(1)原発受け入れの背景
玄海原発が誘致される昭和四〇年代まで、東松浦半島にある玄海町は地形的に水が乏しく赤土の多い土地で農業生産の芳しくない地域でした。仮屋湾と外津(ほかわづ)湾を中心とした漁業もきわめて零細な産業に過ぎませんでした。標高が高く海岸線が屈曲した半島の地形のため道が狭く、船以外の交通手段が乏しかった。そのため玄海町を含む上場台地は「佐賀のチベット」と呼ばれていました。町民の多くが農閑期に出稼ぎに出ることで生活を支えていました。町民自らが、自分たちの町を「後進地域」だと考え、劣等感を抱いていたのです。
一九六六年(昭和41)当時、玄海町の町政を預かっていた幹部は原発を受け入れることで、町の貧しさを克服したいと考えました。当時、六期二十年間も玄海町町議会議長を務め、町議会を牛耳っていた中山穠(しげき)氏は生前に佐賀新聞の記者に対して「(原発の)用地買収にからんで、飲んだ酒代の総額は大体一千万円。清算は町の議長交際費で五百万。九電が五百万出した」と語っています。私の取材に対して、原発誘致決議をした時に町会議員だった中山逓(たがい)氏は「昔は議員が集まれば、そのあと唐津に行って飲むのが普通でした。穠さんにはいつも九電の社員が一人ついていて、飲み会につきあうんです。九電が飲み代を払うようなことも、そりゃああったでしょう」と答えています。
そのような根回しが功を奏したのか、一九六六年(昭和41)六月二十三日の町議会で「原子力発電所誘致」が決議されています。16名の町会議員のうち、反対は1票もありませんでした。
(2)町(行政)と九電(民間企業)の立場の混濁。
その後、用地買収が始まるのですが、玄海町で原発反対運動の中心として働いた仲秋喜道氏は私の対して次のように述べています。
「玄海一号機の建設費は総額で五四五億円といわれていますが、このうち九電が地主や漁業関係者に払ったのが約五億四〇〇〇万円です。用地買収費用は九電から町長の個人口座に振り込まれ、町長が現金を配って歩き、漁業補償金は漁協組合長を通じて配ったようです。町長や議員は用地買収の査定額と実際の買収額の差額をポケットに入れていたのですが、返却して横領罪を逃れました。漁業補償金は、漁協の組合員かどうか、年間漁獲高、船の排水量(トン数)などを勘案して、漁協の幹部が分配したようです。なかには町の外に出ている家族を呼び戻して漁師をしているように偽装した家もあったと聞いています。一戸当たり四〇〇〇万円が最大の補償額だったそうです。これは原子炉一号機か二号機の話です。結局、保守政治と貧困と金が原発を作ったんですよ」
昔の話と言えばそれまでですが、ここで語られている用地買収や漁業補償の手続きはきわめて杜撰です。行政と民間企業である九州電力の立場の違い、緊張感がなにもありません。まるで玄海町町長、漁協組合長、町議会議員は、九州電力の下請け、使い走りのような動きをしています。九電の差し出す大きな金に、玄海町の幹部が浮足立っていた。こうした背景のなかで、玄海町職員による総額2000万円もの公金横領事件が、玄海原発一号機の起工式が行われた一九七一(昭和46)年に起こっています。
原発誘致と原発建設の過程で、民主主義的な手続きが踏まえられていたのか疑問があります。
(3)原子力発電所で玄海町が得たもの
一九六六(昭和四一)年に原子力発電所を受け入れた玄海町では「発電用施設周辺地域整備法」や「電源立地促進対策交付金事業」などの名目で、一九七五(昭和五〇)年から、六年間にわたる公共事業ラッシュが始まります。これは地方交付税などと違い、当時の通産省を経由して支払われるものでした。原発の周囲にある道路の改良舗装工事が一年間に数本から最大二〇本という頻度で行われ、小中学校のプールの新設、福祉センターや特別養護老人ホーム建設などが行われました。
また原子力発電所の固定資産税収入は玄海町の税収を飛躍的に押し上げていきます。一九六六(昭和四一)年度にわずか一〇〇〇万円にすぎなかった固定資産税が、一一年後の一九七七(昭和五二)年度には約六億二〇〇〇万円と六二倍になっています。実に町の予算の半分です。増加分のほとんどが玄海原発の固定資産税であることは明らかです。
以後も税収は増えていきます。一九九八(平成一〇)年には、玄海町の歳入は約八二億円に膨れ上がり、うち税収が約五三億円にも達しています。この税収額はこの年の佐賀県の四九の自治体のなかで、五番目です。玄海町はこうした財源をもとに保育園、小学校、町営住宅などを新設してきます。一九八二(昭和五七)年には玄海町の新庁舎が着工、総事業費は二一億七五〇〇万円、翌年九月に落成式が行われています。庁舎は鉄筋コンクリート四階建て、議会棟は三階建ての瀟洒な建物です。
二〇一二年九月二十二日に行った岸本英雄玄海町長へのインタビューで、「玄海町は地方債残高が一千万円しかない、日本一借金のない自治体だ」と述べた私に岸本氏はこう語っています。
「玄海町は借金もないですが、人口わずか六五〇〇人の町に一四〇億円の基金を持ってます。これほどの基金を抱えた町もそれほどはないでしょう」
このように立地自治体である玄海町に、過去四十八年間に亘り、国と九州電力から莫大な金が流れ込み、玄海町は原子力発電所にかかわる財源にすがって生きてきました。
(4)原子力発電のメリットとリスク
これまで見てきたように、原発を受け入れてきたことで立地自治体が財政的メリットを享受してきたことは確かです。しかし、これまでの原子力政策は「絶対安全だ」という安全神話に基づいて行われてきたものでした。福島第一原発の事故を見ればわかるように、原発の過酷事故は立地自治体をはるかに飛び越え広範囲の国土に放射性物質による災厄を引き起こします。
とすれば、原子力発電所の稼働によって立地自治体に大きなメリットがあるから稼働もやむなし、という理屈を周辺地域の国民が容認することは不可能になったと言えるでしょう。
東日本大震災が起こる前の二〇〇九年度、九州電力は佐賀県で240億5500万kwhの電力を生産しています。このうち98.9%が原子力発電によるものです。佐賀県で生産された電力を、同年度の九州電力の販売電力量の合計に当てはめると28.8%に当たります。二〇一〇年三月決算時の九州電力の売上げは1兆3875億円。この売上げの28.8%はおよそ4000億円です。4000億円の売上げが見込める原子力発電所を九州電力が稼働させたいのは、ビジネスの観点からすればもっともなことに思われます。
しかし、ひとたび過酷事故が起きた時、九州電力が4000億円の売上げと原子力発電所の施設を失うだけで済むのでしょうか?
福島では原発事故で16万人が避難生活を送ったとされ、今も13万人の福島県民が故郷に帰ることができないと言われています。福島第一原発周辺の稲作、酪農、漁業などの第一次産業が壊滅的なダメージを受けたのは日本国民の誰もが知るところです。
玄海原子力発電所の周囲にある長崎、佐賀、福岡の第一次産業を例に具体的に考えてみます。2009年の農業産出額で見ると長崎1376億円、佐賀1274億円、福岡2098億円。同年の漁業生産額は長崎1026億円、佐賀280億円、福岡340億円。
九州北部三県の農業・漁業の合計生産額は約6394億円です。
4000億円の売上げのために稼働する玄海原子力発電所は、これらの産業に大きな損害を与える可能性があるのです。
原子力発電のように、たった一回の事故で広範囲の環境を破壊し、住民の生活と生業に致命的な打撃を与える産業は他にありません。一企業の失敗が、国土と国民生活を崩壊させる危険を内包しているのです。その責任は重大です。
(5)国の責任
福島第一原発の過酷事故で露呈した国と電力会社の危機管理能力の欠如は、福島原発の事故から三年が過ぎた今、抜本的に改善されているのでしょうか?
NHK福岡の報道によると、二〇一三年八月十五日に行われれた原子力規制委員会と九州電力の第九回安全審査会において、九州電力は驚くべき事故対応のシナリオを提出しました。電源喪失によって原子炉を冷やす冷却水の循環が止まり、冷却水のパイプが破断してメルトダウンが避けられなくなった時、九州電力は原子炉の冷却を諦めるというのです。九州電力の担当者の言葉を引用すれば、「大破断LOCAで、ECCS注入失敗で、格納容器にスプレー注入失敗と。この三つを重ねた事象が厳しいと判断いたしまして」、この時、原子炉容器の底に落ちた燃料を冷やすことはあきらめ、原子炉容器の底を突き破って落ちる燃料を、格納容器に貯めた水で受け止め、冷やすしかないというのです。
報道の中で原子力規制員会が「炉心融解の時点で、原子炉には何も作業をしないのか」と度々尋ねても、九州電力は「することはない」と答えています。
つまり、「メルトダウンが起こったらどうしようもないよ」ということのようです。
これまで九州電力は、玄海エネルギーパークの原子力発電を啓蒙する展示において、原子力発電所は五重の壁によって守られ、事故は起こらないのだと主張してきました。ところが福島第一原子力発電所の事故によって、メルトダウンが起こりうることを否定できなくなりました。すると一転して、開き直りとしか思えない事故対応策を提示してきたのです。
もし玄海原発にある四つの原子炉のうち、ひとつが過酷事故を起こせば、放出される高い放射線量によって他の三つの原子炉のコントロールもできなくなる可能性があります。その時、福島以上の原子力災害が起こっても不思議ではないのです。
玄海原子力発電所の建設、プルサーマル稼働、再稼働に関して、過去に国と九州電力が住民に行ってきた説明は、福島第一原発の過酷事故でいったん無効になったと考えるべきではないでしょうか? なぜなら「事故は絶対に起きない」という事実と違う強弁に支えられた説明だったからです。
原子力発電所の再稼働を審査する国は、あらためて広範な周辺地域住民に過酷事故が起こった場合の損害について詳細な説明を行ったうえで、住民が選挙などで原発再稼働の是非に意志表明できる機会を与えるべきです。
また、これは元通産相官僚の古賀茂明氏の提案ですが、電力会社は福島第一原発事故の被害額をもとに賠償額を算定し、最悪の被害を即座に賠償できる原発事故の保険に加入しなければ原子力発電所を再稼働してはならないはずです。
一企業の過失が、周辺住民の生活を奪うというビジネスが許されるはずがありません。
国は玄海原子力発電所の再稼働を許してはならないと考えます。
(6)裁判官のみなさまへのお願い
日本国憲法に謳われた「裁判官の独立」がある以上、過去の判例に裁判官が縛られてはならないことは明白であることを前提として申し上げます。
過去に多くの原子力発電所の建設や稼働をめぐる裁判がありました。その中で原子力発電所に反対する国民の言い分を認めた判決はわずか二例です。そうした流れの中で福島第一原発の事故が起きました。原発稼働を追認した数多くの判例は、裁判官が誰からも求められていない政治家的な発想のもと、自己保身という雑念に負けて垂れ流したものだ、と言えないでしょうか。その判決文にちりばめられた欺瞞が福島第一原発の事故によって照らされる時、裁判官のみなさんは過去の判例を、ずくずくと痛む古傷のようにふりかえらなければならないはずです。
私は志賀原発二号機の運転差し止め判決を行った井戸謙一元裁判官にインタビューを行いましたが、井戸さんは「もし志賀二号機の判決がなかったら、今、司法は何と言われていたことでしょうね。志賀二号機の差止め判決があったから、司法は少しは市民の信頼をつなぎとめることができたかもしれませんね」と私に言われました。
私は過去に裁判官の物語を書いた経験があり、二〇人前後の裁判官・元裁判官の方たちと個人的におつきあいをしてまいりました。そうした経験をふまえ、裁判官とは何かをあらためて考えております。
やはり裁判官は普通の人間ではいけないのです。鍛え抜かれた人格を持ち、普遍的な価値を見失わない神のような視点を持つ意思が求められています。なぜなら、裁判官は判決によって日本国民の未来をつくる特別な仕事をしているからです。
この裁判が裁判官のみなさまの理性によって裁かれることを希望しております。
以上。
佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件
第1回口頭弁論(2014年1月24日)における意見陳述です。
陳 述 書
2014年1月24日
佐賀地方裁判所 御中
住所 佐賀県佐賀市
氏名 石丸 ハツミ
私は石丸ハツミと申します。62歳です。
東京電力福島第一原発事故から3年が経とうとしていますが、今日も日本は「原子力緊急事態宣言発令中」なのです。被曝の脅威にさらされながらの収束作業と、放射能汚染水の流出は今も続き、15万人を超える避難生活者のいる現実を無視して、政府・電力事業者は再稼働へ向けた動きを加速させています。この国の政治は福島を見捨てるつもりでしょうか。国民の命を第一にしないのでしょうか。私達はこのことが許せず、原発政策の本丸である国を訴えることにしました。
私は2006年2月、古川佐賀県知事が「プルサーマル安全宣言」を発表するそのときまで、日本は四季に恵まれ安全な国だと、何も心配せず暮らしてきましたが、勉強会で原発の怖さを初めて知り、天と地がひっくり返るくらい愕然としました。
私達はプルサーマル計画の是非を問うべく県民投票条例制定を求める署名活動を行いましたが、佐賀県議会は49,609筆の県民の声をあっけなく否決。2009年12月2日、とうとう玄海3号機で日本初のプルサーマル商業運転が開始されてしまいました。私達はやむにやまれず、2010年8月9日、九州電力を相手に提訴しました。
2011年3月11日はここ佐賀地裁で第2回口頭弁論の日でした。私達は裁判所を出るや否や、それぞれ大切な家族や友人知人への安否確認の電話を入れていました。刻々と情報が入ってくる中、福島第一原発の状況がとても心配でなりませんでした。この日を境に私達は、反原発・脱原発しかないとの思いを強くし、同7月7日「玄海2・3号機再稼働差止仮処分裁判」と同12月27日「玄海1~4号機全基運転差止裁判」を次々に起こしました。
これまで国も電力会社も原発は「『五重の壁』で守られているから安全だ!」と言ってきましたが、3.11で原子炉建屋は吹き飛び、膨大な量の放射性物質が日常生活へ撒き散らされました。国が住民のパニックを恐れ情報隠蔽したことで、住民は無用の被曝を強いられました。原発は危険極まりないもの、ひとたび事故を起こせば筆舌に尽くしがたい甚大な被害を及ぼすものだと、国民の前に正体を曝け出したのです。原発は人体実験です。事故が起きたら「想定外」では済まされません。
3.11当日、政府は法律に基づき「原子力緊急事態宣言」を発令しました。私は座談会などでこの事を人に話す前に必ず規制庁に確認しています。何度かけたことでしょうか。昨日も「解除されていません」が答えでした。そうした中での、安倍首相の「日本の原発は世界一安全」という不条理極まりない暴言に心の底から憤りを感じています。3.11は三度目襲った核の脅威、誤った政治判断の人災です。日本経済のためとの理由で、今度は世界中に核を撒き散らす原発輸出は、罪をも犯す政策です。国民は決して望みません。
国の最優先課題は「被災者救済」「事故の収束と責任追及」です。この度の事故で、苦悩と不安を抱えている全ての被災者と正面から国は向き合うこともせず、経済優先の原発再稼働など言語道断です。
昨年11月18日、佐賀県議会原子力安全対策等特別委員会は原子力規制庁の担当者二人を参考人として招致し、その中で県議からの「規制基準は原発の安全性を保障するのか」との質問に、田口原子力規制庁課長補佐は「安全ですというと、安全神話になるので、そう言わない。リスクが常にゼロにならないというのを基本にしている。絶対安全な状態になるというのは永久にこない」と答えました。さらに、田中俊一原子力規制委員長も「完全な安全は保証しない」と発言しています。言い換えれば、「原発にリスクはあるから安全は保証しないと、再稼働の前からちゃんと説明していましたからね」と、国から国民は一方的に非道な宣告をされたのです。
翌12月13日、県議会に招致された井野博満東大名誉教授は「新規制基準は、まるで、壊れそうな船に救命ボートをたくさんつけているようなもの。玄海原発の過酷事故時には、炉心溶融を防ぐ手段がなく、対策はすべて『付け焼刃』。『完全に安全』に近づける努力もなしに再稼働は暴挙だ。」と証言しました。国の役割っていったい何でしょうか。国民の命を守ることじゃないのでしょうか。
3.11前から佐賀県や九州電力は「国が安全と言うから安全だ」と繰り返し、国は「原発事故の責任は事業者です」と言っています。市町村は「県の判断を待つ」という具合で、お互い責任のたらいまわしでしたが、3.11を受けてもなお無責任体制は変わっていません。
私達は地元玄海町の各家庭を一昨年、1年かけて訪問しました。
「とにかく偉い人の言う通りにしかならん」
「原発が安全と言うならなぜ、避難訓練や避難道路の拡張が必要なのか」
「福島の放置された牛の映像を見て、自分も牛を飼っているが、なんとも腹立たしい」
「孫達の将来を考えると、やっぱりないに越したことはなか」
「うちは高台にある。事故が起きたら一直線で放射能が来るからもうおしまい」
これらは玄海町民の生の声です。日頃は近所同士で原発の話はできないそうですが、堂々巡りの胸の内を私達に話してくれます。話をしてくれた人も、してくれなかった人も、原発をすぐそこに見ながら暮らすみなさんが恐さを一番実感しておられると感じました。
事故直後、佐賀に来た福島の人が「佐賀は蛇口の水がそのまま飲めていいですね。佐賀に来て久しぶりに深呼吸をおもいっきりしました。日頃からなるべく空気吸わないようにと、していたんです」と言われました。私は、水の大切さ、そして全ての生き物は大自然に守られているのだと、やっと気付かされました。
今、日本中の原発50基全部が止っています。でも国が自ら「絶対安全な状態は永久にこない」と断言する原発が再稼働したら、私たちは不安を抱えながら「どうか原発事故が起きませぬように」と祈るしかないのでしょうか。福島の人達が、原発事故直後の生々しい事実や故郷を奪われ地域社会が丸ごとなくなるという、私達には到底想像もつかない状況を語っています。重ねて、原発は事故が起きなくても、ウラン採掘から廃炉・核のゴミ処理まで命を削る被曝労働と、核のゴミを未来の人々に遺すことになってしまいました。
私達が訴えているのは、特別な問題ではありません。人間として生まれ、大自然の営みに囲まれて成長し、子どもを生み育て、日々の暮らしを繰り返し、初詣には「どうか家族元気で過ごせますように」と、普通の生活を守るための訴えです。ただそれだけです。未来の人達にも動物や植物と共存しながら、生まれてきてよかったと思える普通の生活を送ってもらいたいのです。今を生きる大人の責務としてこの国の不条理を正し、私たち自身が再び原発事故の加害者とならないよう裁判に訴えました。政府は国民の声をまっすぐ受け止め、原発再稼働を止め、「脱原発」そして廃炉へと政治判断をされることを心から願います。
裁判長におかれましては、市民の良識を拠り所にしてご判断くださるようお願い申し上げます。
今日は貴重な場をいただきまして、ありがとうございました。
以上
平成22年(ワ)第591号「玄海原子力発電所3号炉」MOX 燃料使用差止請求事件
第11回口頭弁論(2013年9月13日)における意見陳述です。
陳 述 書
佐賀地方裁判所 御中
2013年9月13日
住所 佐賀市
氏名 大石 與賜子
わたくしは大石與賜子と申します。73歳です。
わたくしが原子力発電というものに初めて気付かされたのは、1979年アメリカのスリーマイル島での炉心溶融事故からでした。「原発とは何なのか」その恐ろしさをほとんどわからないまま、1983年に佐賀市に転居してまいりました。
当時、玄海原発3・4号機増設についての「第2次公開ヒアリング」阻止運動などが行われていました。1986年には、チェルノブイリ4号炉「核」暴走事故で放射能汚染が広範囲にわたり、子どもたちも多大な被害の中に置かれたことを知り、震える思いをさせられました。その後、玄海原発3号機でのプルサーマル発電反対集会などが行われていましたが、自ら積極的に行動を起こすことはありませんでした。古川佐賀県知事の「安全性は確保されている」と見解発表した2006年からプルサーマル反対運動に加わりましたが、スリーマイル島原発事故から27年も経っていました。
原発について学んでいるうちに、なぜこんなにも危険な原発で発電するのかという疑問が生まれました。その上多大な資金を使ったと思える新聞広告やテレビなどで、政財界にマスコミも一体となり、「安心」「安全」「クリーン」を繰り返し強調しているのを見聞きして不審感を抱きました。こうまでして宣伝しなければならない原子力発電の本質とは一体何なのでしょうか。
真剣に原子力発電は止めなければいけないと思い始めたのは、『原発ジプシー』(堀江邦夫著 1979年発行)を読み直してからでした。原発で働いている下請け労働者の日常が逐一綴られています。ずさんな放射能管理による無用な被曝、作業する人の便宜を考えていない設計、高線量にもかかわらず全面マスクを外さずには居れないほどの程の息苦しさ、計算ミスなどによる無駄な労働、作業の意味も知らされない虚しさ、幾重にもピンはねされる賃金、被曝による健康への不安、生まれてくる子どもへの不安、家族と離れて働かざるをえない寂しさ等々。
高レベルの放射能が取巻く最前線の現場では、ノルマに追われて多量の放射線を浴びて肉体をむしばまれながら働いたあげく、棄民とされていく下請け労働者がいなければ原発は成立しない現状をどう考えたらよいのでしょう。
「原子力発電」、すなわち「核」発電は、人の命を食いつくす発電方法としか言いようがありません。原子力の発電の本質はここにあったのでした。まさに原発と原爆は「核」を用いて人を殺める点において同じものでした。原子力発電を「核の平和利用」などと美しい言葉でその危険性を隠したのです。
一昨年の3.11福島核発電所事故によって、推進する人たちの虚偽と隠蔽にみちた言動が明らかにされたにもかかわらず、なおも「想定外」と責任を回避し、被災地の人々への賠償もお座なりのまま、事故の解析・検証も出来ていないのに、新基準による早期再稼働を声高に叫んでいる「推進者」はどこを向いているのでしょう。
敗戦数年前に生まれてひもじさの中で育ったわたしは、無謀な戦争のもたらす悲惨さを知るにつけ、人はどうして戦争など起こし、またそれを止める事が出来なかったのかとの思いを消すことができず、口には出しませんでしたが親の世代に対して批判がましく思っていました。今の日本の状況はどうでしょうか。今わたしたちはどんな処に立ち、その行く末はどうなるでしょうか。
人間は科学技術を発展させて、いかに多くの利便さと豊かさを得てきたでしょう。けれども、同時に、生きとし生けるものを顧みることを忘れ、自然環境を荒らし汚しました。盡きることのない欲望に取り込まれた人間は、権力に溺れ科学信仰や経済信仰に陥り、人を物としか見ようとしない程に堕落してしまい、傲慢にも禁断の「核」を操ろうとして自らの首を締め付けていることに、もっと早く気付かねばならなかったのです。
福島「核」発電所の1・2・3号機はメルトダウンにより、すでに膨大な量の人工放射性核物質が排出されています。地下から海へ汚染がひろがり手の付けようもなくなるでしょう。
老化で脆弱化した核発電機は福島事故の二の舞いになる可能性を増大しています。増え続ける使用済み燃料の冷却、固形廃棄物の設置場所、地震への対応など、いずれにしても放射能が問題であるが故にこれらの課題は難しく、その対策には莫大な費用が必要なことは明らかです。
親の世代と今同じ立場にいる自分が、子どもたちに対して申し開きできない事を恥じます。
わたしたちの世代の不明のために、子孫に重荷を負わせてしまいました。何と言って子どもたちに許しを乞うことが出来ましょうか。
次の世代に少しでも良い状況を創るには、一刻も早く、核発電を止め廃炉にすることを定めることが肝腎だと思います。再稼働など勿論もっての外です。また、他国に原発を売るなど恥ずべきであり、してはならないことです。
わたしはあの、3.11の一ヶ月前頃に病を得てから2年余、特に小さいお子さんを持たれている親御さんの心痛に思いを馳せるばかりでしたが、今幸にも体調は安定しています。残された時は僅かかもしれませんが、新たに与えられた時として「核」発電を阻止するために、用いさせていただきたいと願っています。
「子どもたちが未来に望みをもって生きていけるように」と願い、みなさんと共に「核」発電の全基廃炉を目指したいと思います。
平成22年(ワ)第591号「玄海原子力発電所3号炉」MOX 燃料使用差止請求事件
第10回口頭弁論(2013年6月7日)における意見陳述です。
意見陳述書
2013年6月7日
佐賀地方裁判所 御中
住所 佐賀県武雄市
氏名 多郎浦 和子
この様な神聖な場におきまして、代読をお許し下さり感謝します。
先ずは、障害者代表として意見陳述をさせていただく私自身の身体の状態から説明させて戴きます。
私は幼い時高熱により運動神経が麻痺してしまったため「脳性麻痺」と診断を受けました。脳性麻痺と言っても、脳の犯された部分によって障害の程度も異なります。
私の場合は歩く事も、立っている事も、寝返りすら思う様に出来ない状態です。
話そうとすると、自分の意志とは逆に身体が反応し声が出せなくなります。
特に話そうと思えば思うほど、全身の筋肉が硬直し呼吸をするのがやっとと言う状態になります。
この様な重い障害者の私が、2010年の当初から、「玄海原発プルサーマル裁判の会」の皆様と共に、何故、雨の日も風の日もめげる事無く裁判所に通い続けているのかを今日はお話させて下さい。
二十年程前までは、殆どの重度障害者は施設生活でしたが、 平成15年4月施行の「支援費制度」を糧とし、佐賀県も例外なく、希望に満ちた在宅生活を多くの障害者や老人の方が家族と共に地域で送れるようになりました。
もちろんこれまでには、お年寄りは訪問介護のヘルパーを門前ばらいするし、重度障害者は施設から出る事を親に反対されるしで、在宅で訪問介護を受けるのは無理かと思った時期もありました。
けれど今では車椅子のお年寄りや様々なハンディを持つ若者達が、ごく普通にすれちがい、挨拶を交わし譲りあえるコミュニティ溢れる社会となりました。
きっと福島の方々も原発事故前は同じ様にお年寄りや様々なハンディを持つ人びとが家族や地域の人たちと過ごされて居た事でしょう。
けれど原発事故後、多数の福島の方々は、まだまだ仮設生活にて過ごされておられます。
また、お年寄りや障害者は未だに、病院や施設での生活を送られていると聞きます。
同じハンディを持つ者として、私が何より心配する事は、避難された障害者の方達は、住み慣れた自宅でもなく、使い馴れた寝具も無い不便な生活を強いられ、どんなにか精神的にストレスを感じておられている事でしょうか。
私と同様な重度障害者や特に高齢者が、長期避難を求められることは死を意味します。
体力的な問題や、それ以上にコミュニケーションが取れず、生きる意欲を失うからです。
そんな辛い被災者の人々の心の中にある故郷に戻れない怒りや悲しみを、原子力発電所が有る地域の私達が受け入れ、二度と同じ過ちを起こさない事と思うのです。
また私の街でも、原子力事故の玄海町からの避難訓練が行われていたので、最寄りの役場へ電話で「車椅子の方も参加されてますか?」と聞いてみましたが、障害者の方は参加されていませんとの事でした。
それでも、玄海町の方がせっかく近くの体育館へ来られるのだから、一目でもお会いできたらと思い、その予定表を確認したところ、体育館へは30分のトイレ休憩だけでした。
後はほぼ観光地巡りの予定表だったので、これでは車椅子や足の悪い人の参加は無理で、避難訓練とは形ばかりだと悟りました。
障害者は通常風邪をひいただけでも、訪問介護や施設も病院さえも受け入れてくれる所が見つからない現状なのです。だから、障害者にとって自宅からの退去は砂漠へ置き去りにされると同じことなのです。クッションひとつが一晩なくても、痛みで眠れず、褥瘡(じょくそう)が出来てしまうのが重度障害者で、重いハンディを持つ者の多くの人は避難したくても出来ないのです。
ですから、重度障害者や老人は、戦時中の様な避難を強いられることのない、我が町我が家での平和な暮らしが願いなのです。
それでも、産業発展のために危険性を覚悟の避難訓練ならば、人災は天災と違い予想が立てられます。先ずは未来を担う若者たちの健康と遺伝子だけでも、確実に守れる保障と被曝の賠償を決めたうえで、九州電力と国民個人個人と契約を交わせたらと切に願います。
どうか人災による避難訓練などしないでも良い配慮をお聞き入れ下さい。
また日本は唯一、人類初の原子爆弾投下と言う被害を受け苦しんだ被爆国で、また様々な公害をも多く経験してきた国でもあり、この半世紀、人災による被害は数えきれなく有ります。
代表的なものとして1955年森永ヒ素ミルク中毒・1956年水俣病と、それに1960年代には石炭によるばい塵・じん肺・煙公害が問題視されてきました。
石炭から石油エネルギーへと転換し、また第二次エネルギー革命へと向かい、日本の経済発展のためと信じた、勤勉な労働者たちは何度となく被害を受け苦しみました。
けれどそれ以上に、原子力発電所がいかに恐ろしいか、福島原発事故を体験した、日本人ならば、福島の悲しみと、これから苦しむであろう被曝病を忘れてはならないと考えます。
また人災と言える原発事故は、今までの公害と比べようも無い遺伝子にまでも被害を刻むものです。
なのに、原子力発電所と言う平和利用の名の下、電気料金と引き替えに再稼働しようとしています。これ以上使用済み核燃料を未来に残してはいけないのです。
今、私達の生活基準を節電で下げたとしても、子ども等の健康だけは守り抜かなければと想うばかりです。
チェルノブイリ原発事故後、1990年頃から子ども達の間で甲状腺ガンが急増しました。また放射能の影響を受け生まれてきた子ども達の多くは奇形児として過酷な人生を送られています。どうか未来の日本の子ども達にハンディを背負わせないで下さい。
重度のハンディを持つ私が切に願う事は、産まれ来る子ども達の五体満足なのです。
それに汚染の無い大地さえあれば、住み慣れた人々とのコミュニティを復活させられます。
けれども、人災による原発事故は戦争と同じく領土を失い、永遠に避難者となるのです。
それでも生きていける保障を九電に願いたく想います。
とくに重度の障害者や高齢者は、クッション一つ在るか無いかの些細な環境の変化 にも対応できません。弱者にとって長期避難は拷問による死と同じなのです。
どうか、障害者であろうとなかろうと、我が国の誇る憲法のもと皆の健康を守って下さい。
平成23年(ワ)第812号 九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第4回口頭弁論(2013年3月1日)における意見陳述です。
意見陳述書
佐賀地方裁判所 御中
2013年3月1日
住所 高知県安芸郡東洋町
氏名 澤山 保太郎
はじめに
私は、高知県の東端にある東洋町という小さな町からやってきたものです。
東洋町は、平成19年日本政府及び原子力発電環境整備機構(原環機構 NUMO)によって、高レベル放射性廃棄物の地層処分地として認定され、正規に調査(文献調査)が始められていたところであります。私や町民をはじめ多くの国民の力でその政府の試みは阻止され、調査活動も中止となりました。私たちの町が何故高レベルの核廃棄物の受け入れに反対したのか、玄海原発の再稼働、とりわけそのMOX燃料を使ったプルサーマルをめぐる裁判において、その理由を簡単に申し上げたいと思います。
今日私が、述べようとすることは、稼働している原発の危険性についてではなく、仮に原発が何の事故もなく完璧に安全運転され、効率よく稼働されて国民に喜ばれる大容量の電力を供給できたと仮定しても、それであればなお一層私たちは、原発が生産し続ける廃棄物のゆえに、これに反対しなければならないということであります。
1、原子炉で1gのウラン燃料を燃焼させれば、必ず1gの使用済み燃料、核廃棄物(死の灰)が発生します。薪を焚けばその数10分の1の少量の灰がのこりますが、そんなものではありません。100万kwの原発では1日3㎏のウランが分裂し3㎏の核廃棄物が残されます。そして生産された核廃棄物の毒性(放射能)はもとのウラン鉱石と比べると1億倍にもなると言われています。今、1991年の湾岸戦争で米軍がイラクを攻撃するのに使ったウラン弾の被害は米軍兵士やイラク住民の身体に深刻な影響を及ぼし、次々と悲惨な病変が発生していることが報道されていますが、原発からの核廃棄物の害毒は想像を絶するものがあります。現在日本の原発の敷地内には1万7000トンもの核廃棄物が滞留されていると見積もられて、各原発のサイトでは数年すれば自らが生み出した核のゴミのおくところがなく、最近のNHKの報道特集番組でも全国の原発稼働は廃棄物の処理の困難さだけからもこれを止めるほかないという事態に確実に差し掛かると指摘されています。
電力会社の資料によると、玄海原発の場合は、使用済み燃料の保管事情は特に窮迫していて、あと2,3回の取り出しで満杯になる見通しであり、再処理工程の行き詰まった青森の六ヶ所村への搬出も難しい状況となっているから、これ以上の操業は自動的に不可能な状況と思われます。
玄海原発3号機はMOX燃料を燃やすプルサーマルです。
プルトニウムはウランよりも20万倍も毒性が強いと言われますからプルサーマルに使われるMOX燃料の使用済みの核廃棄物の毒性も通常の原発の廃棄物に比べるとさらに強くなり、中性子の量が10数倍、発熱量でも数倍増大し、高熱のため地層処分が500年間できないとされています。
2、原発の使用済み燃料の処理として日本はこれを再処理工場におくってプルトニウムを取り出して燃料として循環再利用するということを企図してきましたが、仮にこれがうまくいったとしても、使用済み燃料棒を裁断し溶解するなど再処理の過程で出される厖大な高レベル放射性廃液の処理がまた雪だるま式に増大してきます。
プルトニウム1gは優に4千万人の1年分の一般人吸入摂取限度に相当するというおそろしいものですが、現在日本はすでに45トンものプルトニウムを保有するに至っています。このプルトニウムをどう使うか、軍事利用が公然とはできない日本はこれを持て余しています。
日本は、高レベル放射性廃液はガラス固化体にして地層深くに埋設して処分してしまうという計画ですが、いまだにその処分地も定まっていません。
プルトニウムなど猛毒の放射能を何万年という期間、半永久的に安全に保管することができるでしようか。原子力の恩恵を何も受けない世代の人類が、代々に渡って多額の費用と労力を費やしてその施設を防護してくれるでしょうか。
これまでにもアメリカ・ワシントン州のハンフォードや旧ソ連のチェリヤビンスクのマヤクで、大規模な核廃棄物の集積場が爆発したり、多量の放射性廃液を流失させていた事件がおこっています。
昨年9月に日本学術会議は、その地層処分は日本では不可能だという見解を発表しました。そんなことは分かりきったことであって、日本のような地震国で、しかもとびぬけた多量の降雨地帯、地下はどこを掘っても豊かな水に浸っていて、その上過去の地震による断層が入り乱れ、岩石がボロボロの所で、高レベルの核廃棄物の地層処分など出来るわけがありません。
高熱で中性子など種々の危険な核種を発散させる高レベル放射性廃液を、ガラスや鉄、粘土のバリヤで包んだとしても、それらは瞬く間に腐食したり崩壊しますから、結局超危険な核廃棄物を一時的に土をかぶせて人眼から隠蔽するということにしかなりません。地下で何かの事故があっても誰がその埋設施設の修復作業ができるでしょうか。
たくさんな交付金を付けると言っても、私らの東洋町を始めどこの市町村からもプルトニウムの鉱山と化す最終処分地を、引き受けようという土地は一つも出て来ません。
それを引き受けるというのは、特段の事故がなくても、プルトニウムの活火山の上で暮らすことになり、直ちにその町や村の廃村、廃町を意味するのであり、除染することが不可能ですから、何万、何十万もの広範囲の地域の住民は故郷を追われ流浪の民となるしかありません。
3、平成19年の1月、太平洋沿岸の高知県の1寒村である東洋町がその高レベル放射性廃棄物の地層処分の用地を提供するということで、最終処分の実施機関であるNUMO(原子力発電環境整備機構)の調査を受け入れることになりました。
その1年前の平成18年夏ごろから、町長や議員が経産省の職員などと高レベル放射性廃棄物の地層処分について「勉強会」をはじめていました。処分地の調査を受け入れるだけでも大枚の交付金がおりてくるからというのがその理由でした。
住民の大多数がこの企てに反対をしました。
埋め立てられる高レベル放射性廃液はガラス固化体となって子供の大きさほどの容器(キャニスター)にいれられ処分場に運び込まれというのであるが、その強度の毒性のため100万年は人間界から隔離しなければならないと言われているものです。
日本全体の何万分の1の電力しか消費しない小さい町が、どうしてその恐ろしいキャニスターを4万本も受け入れなければならないのか、一寸の虫にも5分の魂がある、住民たちは決然として団結し国家に対して抵抗を開始したのでした。
しかし、推進派の町長の権限で最終処分の掘削地点の調査を受け入れの申入れがなされて、実際に正規の調査が開始されました。
東洋町はかつて昭和40年代にNHKの「現代の映像」というドキュメンタリ番組に取り上げられ、極めて保守的で政治的意識の遅れた町として紹介されたことがありました。
しかし、そのような町であっても、町民たちは放射能の危険性に目覚め、町長や議員が推し進める最終処分場の受け入れに反対して立ち上がり、平成19年4月、ついに核受け入れ推進派の町長を落選させ核反対派の町政を確立し一切の核施設の導入を禁止する条例まで制定しました。
3000人足らずの住民たちは、いかに貧しくとも、静かで美しい故郷での生活の貴さを迷うことなく選択したのです。
4、自分たち1代の贅沢のために、人知では始末に負えない、地上の全ての生命を何度も破滅させるほどの膨大な量の、燃え盛る危険物を子や孫に残していいのでしょうか。ここ10年か20年のうちには日本でも世界でもエネルギーを原子力に依存しないという社会が急速に近づいています。
原子力から何の恩恵も受けない人類に、すでにある1万7000トンもの核廃棄物の貯蔵施設の管理を任せ、これを自然の腐食や地震の震動、津波の襲来、戦争やテロ等々ありとあらゆる事故から厳重かつ完全に遮蔽し、何千年何万年もこの危険物の維持管理を続行することを強要する、そういう権限が私たちにあるでしようか。
私たちが受ける放射能の被害は別としても、エネルギーのことで少なくともこれ以上の迷惑を子孫に負荷させないことが、人間として最低の道徳ではないでしょうか。
平成23年(ワ)第812号 九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第3回口頭弁論(2012年11月30日)における意見陳述です。
意見陳述書
佐賀地方裁判所 御中
2012年11月30日
住所 福岡県福岡市
氏名 清水亜矢
こんにちは。清水亜矢ともうします。原発事故があって、東京から福岡に避難移住をしました。今日は、私の思いを、大切な裁判をされている裁判所の方に聞いて頂けるとのことで、喜んで参りました。
私は、2011年3月11日、東京にいました。緑豊かな小さな市で児童館の職員をしており、3月1日からは産休にはいったところでした。3月10日には担当していた幼児親子の子育てサークルの、年度末のお別れ会に出席し、サークルのママさん達に「もうすぐ清水さんも子育てママの仲間入りだねー」などと祝ってもらい、幸せに臨月を迎えていました。
地震が起こったとき、ちょうど閉め切り間近の確定申告の書類を作っていた時でした。とても怖かったですが、被害と言えば食器が一つ割れたくらいですみました。その時は、原発のことなど、考えもしませんでした。恥ずかしながら、原発の場所さえ、知らなかったのです。両親達に無事の連絡をして、余震にビクビクしながら作業の続きや家事をしていましたが、夕方福岡に住む母から電話が入りました。母はちょうど、こちらのプルサーマル裁判の傍聴に来ていた日でした。「福島の原発が危ないらしいけん、東京を離れた方がいいかもしれん」というものでした。両親はチェルノブイリ原発の事故後、ずっと原発について勉強していて、私は原発や放射能がどれほど怖いものか、両親から教わっていました。ついにそんな時が本当に来てしまうのかなと、つばの味がいつもと違うような気がしました。でも、「いや。そんなことあるはずない。きっと大丈夫」という、別の声も聞こえました。この普通の日常生活が途切れてしまうことは、その時は想像もできませんでした。
夫は3.11の当日は勤務中で、あやうく帰宅難民になりかけましたがどうにか帰宅し、私は両親からのメッセージを夫に伝え避難の相談をしました。2人とも半信半疑で、迷いに迷っていましたが、途中で原子力緊急事態宣言が出たので、「とりあえず念のために友人の住む岐阜まで行こう。週末の旅行のつもりで行けばいいよ。なんともなかったら帰ってくればいいよね。きっと、何事もなく帰って来れるよ。」ということになりました。電車は止まっていたのでレンタカーを探しました。帰宅難民の人を迎えにいくためか、レンタカーは殆ど出払っていましたが、隣の市に1台だけ残っていた車を借りて、岐阜の友達夫婦のところに行くことにしました。準備していた赤ちゃんの服、通帳や保険の証書、書きかけの確定申告書、毛布、とりあえず炊いたご飯を弁当箱につめて「きっと月曜日には帰ってこようね!」と、我が家を出発しました。新婚から4年、仲良しの日も、喧嘩した日も、元気な日も、風邪を引いた日も、妊婦になった日も過ごしてきた、二人で作った大切な生活がたくさん詰まった我が家でしたが、私には、それが最後になりました。
東京から岐阜まで、夜中NHKのラジオを付けっぱなしにしていましたが状況は良くわからず、不安な気持ちで走りました。高速では、何度も自衛隊や消防車、警察の集団とすれ違いました。夜が明けると、事態が変わった訳ではないですが、少しホッとしました。岐阜に着き、友人宅でテレビを見せてもらいながら様子をみていましたが、12日、とうとう1号機の爆発が伝えられ、妊婦の私はしばらく東京には帰れないと判断し、とりあえず13日に福岡に避難することにしました。夫は「もう一日様子を見て、大丈夫そうだったら東京に戻って仕事に行く」と岐阜に残りましたが、結局次の日に3号機の爆発を見て、もっと大きな爆発があるかもしれないと東京に戻るのを諦め、仕事を休んで福岡にやってきました。
福岡に一時避難はしましたが、それで安心ではなく、いつもっと大きな爆発が起こるか、九州にも大量の放射能がいつ降ってくるかと不安でいっぱいでした。チェルノブイリ原発事故の時は、1200キロ離れたドイツまで、ホットスポットができていたのです。万が一放射能が来ると、水が飲めなくなる、母乳で育てられなくなる、布おむつをしても洗えなくなる・・・と放射能防護の為、マスク、かっぱ、ゴム手袋、缶詰、水、粉ミルク、紙おむつなどをそろえました。「もしかしたら放射能が来て、外に干せんごとなるかも知れんけん」と、早めに産着を洗い、泣きながら干しました。そして、もし九州まで汚染されてしまったら日本で子育ては厳しいだろうから、海外避難も考えた方が良いかもしれない、日本円も暴落するかもしれない、と、貯金の一部をユーロに変えました。日本に住めなくなるかもしれない、それを考えると絶望的な気持ちになり、悲しくて自分が消えてしまいそうでした。
そして、3月20日頃、夫はこれ以上仕事を休み続けることが難しくなりました。しかし、原発は一向に落ち着く気配がなく、いつ大爆発をするか分からない状況でした。そして、新聞を見ていると、東京で土壌の放射性物質の検査をした結果が載っていました。その数値を、チェルノブイリ原発事故の時の、避難基準の数値と比べると、「放射線管理強化エリア」というゾーンの数値だと言うことが分かりました。私が福岡での出産を決めたことをきっかけに、夫から「厳しい決断だけれど、東京を一旦引き払おう」という提案がありました。大切な友達や、苦しい思いを積み上げてきて、やっとつながり始めた大学での研究や仕事、人とのつながり、赤ちゃんが生まれたら散歩しようねと言っていた公園、その他大切にしてきたものが数えきれないくらいたくさんありましたが、生まれてくる子どものことを考えると東京で子育てをするリスクは大きすぎるということで、最終的に2人で泣きながら決断しました。
夫は、引っ越し、退職手続き等のため、22日〜25日の日程で、東京に戻りました。今から思えばちょうどその頃、濃い放射能を含んだ雨が東京に降り、夫は雨に当たってしまいました。その時は、濃い放射能が来ているとは知りませんでした。何年か後に影響が出るようなことにならなければ良いと、祈ります。あるかないかもはっきりしない放射能に気をつけながら、一人で家の中にこもり、引っ越しや退職の手続きを終わらせ、夫は福岡にやってきてくれました。
4月5日の夜、陣痛が来て、4月6日、赤ちゃんは産まれました。男の子でした。夫がずっと手を握って深呼吸してくれ、両親に見守られ、夫の両親も遠くで祈っていてくれ、幸せなお産でした。ちょうど、福島原発から九州に一番たくさん放射能が飛んで来た日でした。息子は今は1歳7ヶ月になりました。
今私は、息子の結音(ゆうと)に、毎日あふれるくらいたくさんの幸せな気持ちをもらっています。私はこの気持ちを、結音にも味わわせてあげたい。結音が望むなら、子どもを作れる環境を残しておいてあげたい。私の母が出産前に「あんたに幸せなお産をして欲しいもん」と言ってくれていたのも、今思えば同じ気持ちだと思います。私の両親は、二人で作った野菜をたくさん使った美味しいご飯で、豊かに私達兄弟を育ててくれました。私はこの豊かな命を、結音につないで行きたいと思います。その為に、原発はやっぱりなくさなければいけない。そう思って、今、できる限りのことをしています。大勢の人の前で自分の考えをお話をするなんて、福島事故前の私にはあり得ませんでしたが、今はできることはなんでもやります。
もちろん、私達は九電自体に反対しているのではありません。電気は生活する上でとても大切なものですし、電気を私達に供給してくださっている九電の方にはとても感謝しています。ただ、「発電する方法を、原発から、違うものに変えて欲しい」とお願いしているのです。当面は火力でも良いし、九電は、地熱発電の優れた技術をお持ちです。ぜひともそちらの方にシフトしていただきたいです。
私は今、希望を持っています。事故前、私は原発のことは両親が教えてくれて知っていました。知っていたのに、諦めて何もしなかった。今こうしている間も、福島や東北や関東で、子どもも大人も大量の被ばくをしています。また、私達のようにたくさんの夢や繋がりを捨てて、移住しなければならなかった人もいます。それは、事故が起こるまで何もしなかった私の責任でもあります。でも、もうこんな思いは繰り返したくないし、こわくてなにもしないでいられません。福島事故が起こって、今、私のような思いの方がたくさん自分にできることを、必死になってやっている。そのエネルギーは、何かを変えることができるのではないかと思います。実際に、大きな企業が、消費者の必死の要望に応えて放射能の検査をしてくれるようになったり、大きなデモの主催者に、首相が会ってくれたり、政党が票を得ようと脱原発を掲げたり・・・・みんなが必死に根気づよく、それぞれのやり方で動けば、原発はなくなるんじゃないかと、本気で思っています。
裁判官のみなさん、お子さんがいらっしゃいますか?子どもさんが、幸せそうに笑いかけてくれる時の気持ちを思い出してみてください。そして希望を持って、一番ご自身で納得の行く、子どもさんに誇れるご判断をお願いします。
平成23年(ワ)第812号 九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第2回口頭弁論(2012年8月17日)における意見陳述です。
意見陳述書
佐賀地方裁判所 御中
2012年8月17日
住所 福岡県福津市
氏名 宇野朗子
宇野朗子と申します。福島市で被災し緊急避難、現在は、娘と福岡県福津市に仮住まいをしています。
今日は、玄海原発を止めるための重要な裁判をしてくださっている裁判官のみなさんに、福島で起きたこと、今起きていることを知っていただきたく、私の経験と想いをお話させていただきます。
私は福島市に住んで12年目でした。私とパートナーと娘、2匹の猫と暮らしていました。5年前に子どもを授かり、親として娘にしてやれることは何かを考える中で、自然農を学び、地域通貨の試みにも加わり、食やエネルギーを自給して暮らす人々と知り合いました。人としてまっとうに生きたいという人々の願い、福島には、それに応える豊かな自然がありました。子育てをきっかけにして私は、本当の福島の奥深さを知ったのでした。
娘が3歳になった2010年2月に、佐藤雄平福島県知事が、プルサーマル運転を3つの条件を付けて認めると表明しました。さらに私たちに危険を背負わせるのかと、居ても立っても居られなくなって、私は受け入れ反対の声をあげるようになりました。学習会を開いたり、署名を集め県議会に提出したり、県庁に申し入れに行ったりしながら、原発の問題を少しずつ勉強していきました。
あまりにも深刻な核廃棄物の問題。地球上の誰も、10万年、100万年もの間安全に管理し続ける方法を知りません。にもかかわらず、私たちは毎日膨大な死の灰を、「発電」の名のもとに生み出しています。
そして原発は、被ばく労働なしには1日たりとも動かないものだということ。たくさんの人々が、被ばくのリスクを知らされないまま、劣悪な環境で、低賃金で働かされ、多くの人が、健康を害し、いのちを失ってきました。労災認定がおりたのはたったの10人、多くは泣き寝入りさせられ、沈黙を強いられ、社会にはこの事実が隠され続けてきました。福島原発は、事故件数も多く、労働者の被曝量日本一の原発でもありました。だまされていた自分がとても悔しく、申し訳なく思います。
原発が動くための燃料は、ウランだけではありません。差別と嘘と抑圧、これが原発に不可欠の燃料です。このような原発が温存される社会では、真の民主主義は育ちえないと、私は思います。
私は、その年の6月13日、福島第一原発のゲート前に、東京電力にプルサーマルを止めてほしいとお願いに行きました。そこで私は、震度5弱の地震に遭遇しました。ゴォーッという地鳴りと大きな揺れの中で、私のすぐ脇にある原子炉で何が起きているのか、大変な恐怖を感じました。
そしてその4日後、福島第一原発2号機で、外部電源喪失事故が起こりました。下がった水位は2メートル、メルトダウンにもつながりかねない重大な事故でした。けれども、ことの重大性を理解した報道は皆無、東電は原因究明も十分行わないまま、その場しのぎのマニュアル手続きを追加した程度で、再稼働してしまいました。福島県も立地自治体も保安院もこれを放置しました。40年もの長い間、私たちは背負わされている危険について「蚊帳の外」に置かれてきたのだ、そして電力会社も国も県もマスコミも、本気で人々のいのちと暮らしを守ろうとはしていないのだと、理解しました。大きな地震がきたら、大事故、大惨事になり、たくさんの命が亡くなり、福島の大地と海は命をはぐくめないところになってしまう。「その時」が来ないために手を尽くすしかない、知った者が、伝えるしかないのだと、思いました。
8月から、毎日福島県庁前に立ち、県に住民のメッセージを届けました。「ふるさとを核のゴミ捨て場にしないで」「ふるさとを核の汚染まみれにしないで」「ふるさとを第二のチェルノブイリにしないで」、こう書かれた横断幕を持ち、500通を超えるメッセージを届けました。
福島第一原発3号機のプルサーマルは、多くの人々の懸念の声を無視したまま、その年の10月に商業運転に入りました。市民でもっと原発の問題を自由に語り、原発依存から脱して真に豊かな福島の未来像を作っていこうと、様々なイベントを準備し始めました。
そんな中で、私は2011年3月11日を迎えたのです。
その日、私は福島市内の友人の家の庭で被災しました。暴れ馬のように力強く揺れ続ける地面にしがみつきながら、「大好きだよー、大丈夫だよー」と隣にいる娘に繰り返し言いました。そう言いながら、心では「ああ、大変なことになってしまったかもしれない。間に合わなかったのかもしれない」という想いがこみあげるのを抑えることができませんでした。本震が終わると、すぐに友人宅に逃げ込み、私は情報収集を始めました。電源喪失、メルトダウンの危険ありとすぐに情報がありました。電源車が間に合うことを祈りながら、原発近くに住む友人や、家族に電話をかけ続けました。夜11時過ぎ、緊急災害対策本部発表の文書で、炉心損傷がすでに開始していると予想されていることを知りました。文書を見た時点では、あと数十分で、核燃料の被覆管の破損が予想されていました。ああ、とうとう過酷事故は起きてしまったのだ。私たちは緊急避難を決めました。震災発生から10時間後、私と友人は、赤ちゃんを含む子どもたち5人を連れて、西へ避難をはじめました。ひとりでも多くの人に、この危機を知り行動してほしいと、避難を始めるというメールを無差別に送りました。ちらちらと雪の降る、寒くて静かな夜の福島市でした。
避難の途中で、1号機が爆発。13日、山口県宇部市にたどり着き、3号機爆発の映像を見ることになりました。
あの日から、私はまるで戦争の中にいます。
複数号機の原発過酷事故、収束の目途も立たないまま、未曾有の放射能汚染の中で、福島に何が起きたのか。
避難の混乱の中で、失われていったいのちがありました。津波に生き残り助けを待ちながら途絶えたいのちがありました。すべてを奪われ、未来の展望もなく、絶望の中で、自ら命を絶った人がいました。多くの人々が故郷を追われ、地域も家族もバラバラになりました。
事故をより小さく見せよう、被ばくがもたらす害を小さくみせようとする、国・県・マスコミあげての大キャンペーン。情報が隠され、不正確な情報が流されたため、住民が無用な被曝を強いられてしまいました。ヨウ素剤による防護策も、殆どとられることはありませんでした。
メルトダウンはしていない。レベル4である。チェルノブイリ事故の10分の1である。直ちに健康に影響はない。年間100ミリシーベルトを越えなければ安全です。ニコニコしている人には放射能の害は来ない。危険をあおる流言飛語に注意してください。・・・ありとあらゆる、「嘘」と「ごまかし」が語られ、事実を知るための適切な調査はなされず、またはその結果を隠されました。それによってもたらされたのは、被災者間の深い分断、放射能問題をタブーとする抑圧的な空気。それらを前提としてまかり通る、棄民政策の数々でした。そして何より、人々が被曝し続ける事態となりました。
除染は遅々として進みません。危険な除染作業に被災者である住民が駆り出されています。有機農家の友人は、事故後、作物が汚染され農業を断念しましたが、彼女は今、仮住まいからバスに乗り込み、避難区域の村の除染作業に通っています。石塀も、屋根も壁も、ゴシゴシ、ゴシゴシと、ブラシでこすり、水で流すのだそうです。作業者の装備は軽く、健康への影響が懸念されます。そして原発事故という人災によって生計の道を閉ざされた被害者が、加害者がまきちらした放射能の後始末を行うのを見るのはとても悔しいです。
余震が続いている福島原発の事故現場では、毎日3000人もの人々が被曝しながらの作業にあたっています。既に6人の方が亡くなり、大量被ばくされた方も報道されましたが、その後どうなったかが心配です。4号機プールの倒壊も懸念されています。2号機内部がどうなっているのか、誰も分かりません。
そんな薄氷を踏むような危機の中で、誰かが、収束作業を続けなくてはならない。絶対に収束させなくてはなりません。そのために、何人の人の命を差し出さなければならないのでしょうか。原発を作り、動かし、その利権の甘い汁を吸った人々が、まず、収束作業に全力であたるべきと思います。しかし実際には、ホームレスなどの生活困窮者や立場の弱い下請け会社の労働者たち、そして仕事を失った被災者たちが多く作業にあたっていると聞いています。収束には、何十年、百年以上かかるとも言われています。この事態に対して全く何の責任もない子どもたち、未来の世代の人々に、この過酷な犠牲を強いなければならないことに、痛恨の想いです。
そしてもし再び、放射性物質の大量飛散という事態になった場合に、住民にどう情報が伝えられ、どう避難し、被ばくから守られるのか・・・その備えはいまだに全くなきに等しいという現状があります。福島県民は棄てられていると感じています。
今年に入り、屋外活動時間の制限も解除、屋外での運動会、鼓笛パレード、プール開き、海開き、祭りなどが、まるで復興の象徴であるかのように進められています。そのような流れの中で、子どもたちの健康にかけられ続けている被ばくの負荷が一体どのくらいになるのか、正確に知る術もありません。
ひとたび原発事故が起これば、どんな苦しみが襲うのか、どうか想像してください。
私たち被災者でさえも、その被害の全容を知ることができません。それは極めて広範に及び、徹底的に社会を破壊します。最も犠牲を強いられているのは、子どもたち、未来の世代の人たち、そして物言わぬ動物や虫や植物です。犠牲にされる未来を考えるとき、私は私たち大人世代の犯した罪の深さに、底知れぬ恐怖と悔恨の念を覚えずにはいられません。
今、私たちは被害を、少しでも小さくしようと闘っています。タンポポや、蝉、魚などですでに見られ始めている突然変異。子どもたち・大人たちが経験している健康の変化。先日、保養に来ていた16歳の女子高校生が言いました。「福島が安全なんかじゃないって、私たちだって知っている。私は長生きはできないと思う。短い人生をどう生きたらいい?」。様々な健康上の問題に悩む子どもたちは、たくさん現れるでしょう。生まれる前の死を強いられるいのちもまた、数えきれないほどになるでしょう。未曾有の低線量被ばくの継続という事態に、私たちはいのちをつなぐためになすべきことを必死で探しています。
裁判官のみなさん、福島で起きたこと、起きていること、これから起きることに、どうぞ目を凝らしていただきたいのです。
私たちが子どもたちに課すものは、被ばくという重荷だけではありません。54基もの原発とそこで生み出し続けた死の灰を、これから次々と襲うであろう大地震の困難にも耐え、施設の老朽化にも耐え、閉じ込め管理し続ける綱渡り――これを私たちの大切な子どもたち、孫たちに課すのです。
再稼働というのは、この問題への着手を先送りにするだけでなく、手に負えない死の灰を膨大に生産することを是とするということです。原発は、1年間稼働するだけで、燃料として使うウランの1億倍の放射性物質を産み出します。福島原発に閉じ込めておかなければならなかった核分裂生成物の恐ろしさ、手におえなさに、私たちは苦しんでいます。この苦しみは、時を経るほどに深刻になっていくでしょう。このようなものを、これ以上生み出してはいけません。原発をなお動かし続けるということは、福島原発事故が進行している中で、私たち人間社会の倫理の死、真実の死、民主主義の死をも意味するのではないでしょうか。
また日本は、地殻の大変動期に入ったと言われています。現に、地震の数は、311後爆発的に増えています。近い将来、どこかで必ず大きな地震が来るでしょう。もう一度、原発震災を起こしてはなりません。その努力を、全ての場所で、あらゆる人が、しなければなりません。福島原発にも匹敵するほど古く、そして福島原発以上に脆く劣化した玄海原発は、地震を待たずとも大事故の危険性がありますが、地震の危険も想定しなければなりません。地殻の変動のもつ時間は、人間の文字の歴史よりも長いものです。大地震の記録がなかったところに突如大きな地震が襲う、ということを、私たちは2005年の福岡県西方沖地震で経験しているはずです。しかし、玄海原発の耐震性は全国平均より低い540ガル、福島原発事故後に装備したと九電が胸をはる電源車は、海抜の低い場所に2台並べて置いてありました。
ひとつひとつの対策の不備、問題点は、すでにたくさんの指摘されていると思います。福島原発事故で、暮らしを根こそぎ奪われ、未来を暴力的に変えられた被災者の1人として切に訴えたいことは、原発は、差別と犠牲を許容することなしには動きえず、手に負えない核分裂生成物を未来世代の人々に押し付けることが前提の、人道上許されない発電方法であるということです。そして、同時代を生きる私たち人間が、地殻の変動期を迎えた大地の上で生き延びていくためには、原発を止め、生み出した核物質の安全管理のために叡智を集めて取り組まなければならないのだということです。
この人類の難問を前に、一刻の猶予もありません。
私は、この未曾有の事態に対する人々の闘いに、裁判所がその本来の役割を果たしてくれることへの信頼をこめて、この裁判に加わりました。私は、九州電力が、福島の悲劇を直視し、これまでの人命軽視利益追及姿勢を深く反省し、原発推進から降りるということを望みますが、この裁判では、全面対決をするとのことです。昨年冬、九州電力の方が私に言いました。「福島原発の事故で亡くなった人は一人もいない」と。九州電力は今のところ、これほどまでに大きな悲劇が眼前にあっても、それを受け止め、学び、成長するという力を持っていないように見えます。このこと自体悲劇ですが、もっと悲劇なのは、間違ったことが間違ったこととされないこと。私は、九州電力が、どんなに現実から目をそむけ、嘘とごまかしの上に原発利権にしがみつき続けたとしても、その事実を見抜き、そのような不正義がまかり通ることを許さないと、たくさんの人々が声をあげることを望みます。私たち市民が、裁判という正当で、民主的な手段をとるのも、より多くの人々がこの問題に取り組み、この誤った流れに司法が正しい判断を下し、歯止めをかけてくれると信じるからです。
私はクリスチャンではありませんが、311後、何度となく口ずさんだ、ラインホルド・ニーバーの祈りの言葉で、意見陳述を終わりたいと思います。
神よ 変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
私たちは、この地球の生態系に生きるひとつの生き物であるという変えられない真実から再出発をするべきだと思います。それは、裁判官の拠り所である「良心」と「法」の絶対的基盤でもあります。何十万、何百万の人々が、裁判官の皆さんを応援していることをどうぞ忘れないでください。
ありがとうございました。
平成23年(ワ)第812号 九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第1回口頭弁論(2012年4月13日)における意見陳述です。
意見陳述書
佐賀地方裁判所 御中
2012年4月13日
住所 佐賀県鳥栖市
氏名 木村 雄一
私は木村雄一と申します。
昨年の東日本大震災により福島県の東京電力福島第一原発事故に生命(いのち)の危険を感じ佐賀県へ福島市から避難をしました。
私たち夫婦は、昨年1月29日に娘を授かりました。
2011年3月11日震災時まで、まだ外へも出た事の無い、生後1ヶ月半の我が子の健康と、そして私たちも同じく健康被害を深刻に受け止め夫婦で相談し、5月に妻と娘を新潟県湯沢へ母子避難を急いでさせました。
放射能に汚染された福島市で、認識と決断まで2ヶ月かかり事の重大さに気づきました。
なにより心配したのは産まれたばかりの子供の健康、これからこの福島の放射能に汚染された土地で子供を育てられないと判断し、6月17日福島から新潟経由 で家族を迎えに行き、そのまま1500キロの道のりをクルマで子供の荷物を優先に、私たち夫婦は夏服だけの少ない荷物で佐賀県鳥栖市へ避難致しました。
福島県福島市は国の避難指定地域ではありませんが、原発から直線距離60キロ。ちょうどここ、佐賀市も玄海原発から60キロで同じ様な環境です。
避難途中新潟を過ぎてサービスエリアで子供をだっこして、初めて外の空気や暖かい陽射しを浴びた娘の笑顔に夫婦で顔を見合わせ、避難したのは正しかったと感じました。
私が産まれたのは
昭和35年3月宮城県石巻市で産まれました、その実家は昨年の震災で津波に家もろとも両親も、のみ込まれ行方不明のままです。あの未曾有の大地震と津波により人生が思いもよらない事態となりました。
当時私は福島市で飲食店を経営しており、昨年6月から一時閉店とし避難しました。知り合いや仲間に放射能の危険を話しても口論になったり、政府が危険と云っていないなど、個人間では認識に大きな隔たりがありました。
避難を口にし「自分たち家族だけ健康になって下さい」「福島から逃げるんですか?県外から来た人間は捨てるのも早いですね」などいわれなき誹謗中傷も受けました。
結局長年掛けて必死で努力して来た仕事も諦めなければいけなくなりました、それは自分自身の夢の集大成である店を諦めなければいけない事でした。
避難の理由は
地震の被害でも津波の被害でもなく東京電力の福島第一原発事故の放射能汚染が一番の原因です。
震災後当時、ライフラインがストップした後、 東北沿岸部の津波や3月12日福島原発1号機の爆発などの情報はクルマのラジオとインターネットから知りました。津波被害の実家の事が気がかりで、地震からしばらく実家へと釘付けの状態でした。
福島は3月15日まで3基の原発が爆発しました。ライフラインがストップしたなか、その15日まで外に水を貰いにいったり、買い物をするためスーパーの店 先に並んだりと、放射能の危険など何も知らずに家族を代表して外に出歩いていました。この時はまだ福島から避難するなど考えもしていませんでした。
原発事故の爆発で最初に耳にしたのは「子供に悪影響を及ぼす」と云うものでした。
当初私は原子力発電所が福島にある事は知っていましたが、関心も知識もありませんでした。放射能・セシウム・ストロンチウム・ガンマ線・アルファー線・ガイガーカウンター、これらを耳にするのも初めてであり、なんの事なのかさえ私はあまりよく理解していませんでした。
しかし25年前のチェルノブイリ原発事故資料を見て愕然としました。
福島県でどんな事が起きているのかようやく理解をしました。
「ただちに健康に影響は無い」との時の大臣の言葉に疑問を抱き、調べられるだけ調べ、政府の発表や報道などテレビへの疑心も強まり、海外の専門家の言葉を信じる様になっていました。
チェルノブイリではホットスポットと呼ばれる250キロ、300キロ離れた場所まで健康被害が増えたと書いてあり、子供は甲状線癌の症状が年数が立つにつ れ増加し、白血病なども増え、若い少年少女が亡くなっているデータを知りました、そしていまなお、ガンなどで多くの方が亡くなり続けたり、障害を持った子 供が産まれたりしているといいます。
その原因とされる専門家の研究では放射能の空間線量と内部被曝であると言われています。
本来放射能管理区域の空間線量の数値が我が国、日本の法律で1時間辺り0.6マイクロシーベルトとなっています。これは原発や核施設がある場所の法律で18歳未満の労働の禁止や立ち入りには厳重な管理が必要とされる場所です。
しかし3月から4月の福島市の空間線量は1時間あたり20~24マイクロシーベルトとNHKの天気予報で一緒に発表されていました。しかし県からも市から も危険であるとの告知は行われず、全くと言っていいほど市民へ注意や危険を知らせる街宣車などでアナウンスされることはありませんでした。
そして政府は年間20ミリシーベルトを暫定基準とすると発表しました。
その基準で福島の子供達は大丈夫なのか?
何故政府は避難勧告を30キロにとどめているのか?
アメリカは80キロ圏内から離れろと、フランスは100キロ、ドイツでは東京も避難が必要と各国の放射能や原発の専門家が指摘しておりました。日本はロシアよりも狭く、狭い場所に人口が過密している為、むしろ戦後最大の原発事故になるだろうと思いました。
26年経った今でも、チェルノブイリでは立ち入る事さえ出来ないでいます。チェルノブイリは1つの原子炉の原発事故で1ヶ月で石棺という迅速な対策をしました。福島原発は4つの原子炉が、冷やすだけで、ほかは手をつけられない状態で、もう1年が過ぎました。
その後の対策を見ても、とんでもない事態がこの国で起きていると実感しました。
避難から今日まで
原発事故による放射能汚染で人生が狂わされ、新しい土地でまた一からやり直さなければいけない、経済的、精神的にとてもいいつくせないほど辛く悲しい1年あまりでした。
妻は生後間もない育児を、両親や祖父母の協力を貰えなくなりました。
孫の成長を楽しみに側で手助けして育児を出来なくなった両親
生まれ育った故郷から遠ざけられた知り合いも居ない妻のかなしみ
私の店を心の拠り所としていた若い世代の仲間やお客様の失望と私の絶望
今も福島に住む方と認識の違いから、 福島での結婚式に招待されて、空間線量や出される料理にも気を遣い、出席する気持ちにもなれず、また親戚が亡くなり葬式に参列出来ないなど精神的苦痛を毎日味わっています。
なにげない日常の楽しかった人生をともにした仲間との語らいを無くした事も引き裂かれた思いです。ともに福島各地から避難した知り合いとは全国へバラバラになり、お互いの夢や希望まで失われ、大切な時間まで奪われました。
放射能は目に見えず、臭いも無く静かに忍び寄る非常に怖いものです。
1年が経ち妻の家族との話から、福島の安全と云われる方の意味は、安全と信じたいとの思いであります。政府は避難地域など危険な地域を指定してくれれば避難すると云っています。
今回の事故で
今までどれだけ危険な原発に頼って来たのか、無関心だった事を恥ずかしく思います。
原発がなければ電気が足りなくなるとのキャンペーンも、現実原発が止まっても、原子力発電よりは安全な火力発電など努力すれば停電など起きず、むしろ過剰に電気を作り出していたんだと思います。
たかが発電を原子力、いわば核を平和利用などといいながら国策として国は戦後から押し進めて参りました。しかしひとたび事故が起きれば狭い日本には向かないシステムであると云わざるを得ません。
放射能は街を壊し、経済を破壊し土地も汚染し一次産業を壊滅へと向かわせました。そして近隣県まで放射能汚染は影響を与え、これから何年も苦しむ実害となりました。そこで暮らしていた私たちの生活も人生も狂わせてしまいました。
一つの産業でここまで破壊するものが他にあるのでしょうか?
原発の技術者は安全といいながら、結局核の暴走を今現在も停める事は不可能で、冷やすだけであります。震災以降もつづくまだまだ大きな地震、またいつ事態が急変し東日本へ莫大な損害を与えるのか心配でなりません。
国も経済界も原子力ムラと云われる、お金や利権でしか物事を判断出来なくなり、国は生命や財産を守るべき義務をなにひとつ果たしておりません。軽微や重大 な原発事故は過去にも起きていますが、県への報告が遅れたり、隠蔽がなされたり、自分たちに都合がいいように操作をしていた事実も沢山あります。
東京電力も企業責任としての事故への謝罪や対応もなにひとつ迅速に対応しておらず、あまりにも理不尽な行為に怒りさえ覚えます。数年後福島から多くの健康被害が起こると云われています、避難した私たちも被曝者として生きなければいけません。
子供が私より先に死ぬなんて事があったらどうしたらいいのでしょうか?
国は責任をとってくれるのか?
東京電力はどう償ってくれるのか?
水俣病の裁判を見る限り、同じ様に何十年と闘っていかなければいけない事になるのでしょうか?
多くの不安にかられながらこれから先、生きなければいけません。
原発がなければ私たち家族の人生はこうにはなりませんでした。
こんなに危険な核で電気を作る必要がどこにあるのでしょうか?
今や原発施設がある事は、その村や町の問題ではなく、隣の県まで考えた関与が必要と思われます。避難先であるここ佐賀県も原発立地県であります。福島と同 じ老朽化した原発、プルサーマルと云う燃料の同じ原発もあります。現在定期検査で止まっていますが、もう二度と動かさない事を祈るばかりです。
しかし古川県知事は昨年から嘘と偽りの弁明で原発利権に関わる事が明るみに出ました。そんな県知事の判断で再稼働し事故が起きたらと危惧します。
この街で平和に暮らしたい、安心して暮らしたいと私の周りでは誰しも思っています。
もう危険な古い発電方法の原発で電気を作らないで欲しい。
福島が原発の恐ろしさを物語っています。福島の事故を教訓として学ぶならば「原発は人間と共存は不可能であり、ただちに放棄しなければいけない」と考えるのが普通の人間の考えです。
私たち大人は未来ある子供達を危険から守らなければいけません、そしてその先の日本人へ危険なものを無理矢理押し付ける様な事をしてはいけないと思います。
原発に頼る電気の発電方法を、新エネルギーの発電への転換という形で、未来へ届けなければいけません。日本には誇るべき新エネルギー技術も沢山あります、そして幸いな事に国土面積は先進国でも小さい面積であり大国と違い、すぐに実現可能だと思っています。
それが福島原発事故を経験した国民の賢明な判断だと思います。事故が起きれば被害は何十年、何百年とその土地を使えなくします。経済よりも、そこで暮らす人々の安心と安全を優先すべき福島の教訓ではないでしょうか?
この裁判で県民や隣県の方々が一日も早く安心して生活出来る環境と、私たち夫婦の子供が安心安全な佐賀へ避難した事へ感謝出来る様になることを希望します。
よろしくお願い申し上げます。
意見陳述書
2011年10月21日
佐賀地方裁判所 御中
住所 長崎県諫早市
氏名 川原 重信
私は長崎県諫早市に住んでいる川原重信と申します。
一昨年の3月まで長崎市平和町に住んでいました。原爆が投下された地点から約300メートル、朝夕は長崎原爆資料館の横を歩いて通勤していました。私自身は被爆者でも2世でもありませんが、日常的にそのような人たちと接しています。また、長崎には世界の各地から核の被害者が支援と連帯を求めて訪れます。私もその人々の受け入れに何度か関わったことがあります。本日はそのような立場から裁判長並びに裁判官の皆さんに是非とも直接話を聞いて頂きたくこの場に立ちました。
私がなぜこの裁判に参加したのか、その最大の理由は原発事故の甚大さと悲惨さです。この事実は残念ながら今年3月11日に発生した東北太平洋沖地震に伴う東京電力福島第1原発事故によってもたらされている事実によって証明されました。
福島第一原発事故は、複数の原発施設で炉心溶融と水素爆発にいたるという世界にも類を見ない大事故となりました。膨大な量の放射能が環境に拡散し、大気と土壌と水と海が汚染されました。半径20km圏内は警戒区域に、30km内外の高濃度汚染地帯は計画的避難区域とされるなど、10万人にも及ぶ地域住民が避難生活を強制されたのです。家族の離散、学校閉鎖、失業、家畜と農産物の放棄、長年に亘って築き上げてきた地域コミュニテイの崩壊など、生活基盤を根底から奪われた避難生活者の山ほどの苦しみと悲しみと怒りをだれが受け止めることができるでしょうか。
放射能汚染はこれらの指定区域にかぎられるものではありません。4月はじめに福島県が調査したところによると、県内小中学校の76%が法令で定める放射線管理区域基準を超えるレベルで汚染されています。こうした汚染地域に暮らす福島県民は150万人にも及びます。9月19日、東京の明治公園で政府のエネルギー政策の転換を求めて「さよなら原発5万人集会」が開かれました。この集会で被災地福島を代表して登壇した武藤類子さんは「毎日、毎日、否応なく迫られる決断。逃げる、逃げない。食べる、食べない。子どもにマスクをさせる、させない。洗濯物を外に干す、干さない。畑を耕す、耕さない。何かにもの申す、黙る。様ざまな苦渋の選択がありました。」と、被曝に対する不安の中での日常生活について廻る苦悩を表明されています。本来であれば、東京電力はこれらの人々全員の集団避難と生活保障に責任を持たなければならないのだと思います。
放射能汚染は福島県内にとどまるものではありません。県境を遙かに越え200km先、300km先にまで拡がり、お茶やキノコなどの出荷停止さえ引き起きています。
既に事故から7ヶ月が経過をしましたが、政府及び東京電力は事故を起こした原子炉の状態さえ正確につかむことはできていません。事故は現在も進行中であり、収束にはほど遠い状態が続いています。事故現場で働く労働者の被曝も憂慮されます。政府と自治体によって放射性物質の除染作業計画が立てられようとしていますけれども、地域住民が古里に戻れるのは何時なのか、戻れる日が本当に来るのかどうかさえも定かではありません。
プルサーマルがウラン燃料を使った発電よりも危険性が高くなることは九州電力も認めています。ウラン燃料を用いた発電でさえ安全性は確保できていないのですからプルサーマルが極めて危険であることは火をみるより明らかだと思います。
1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の場合、「子ども達の様子がおかしい、疲れやすく様々な病気にかかるようになってしまった。救いの手がほしい。」とウクライナやベラルーシから支援を求める声が届くようになったのは事故から3年も経った後のことでした。それはフクシマの子ども達のこれからを暗示しているのではないでしょうか。放射能の影響は成長過程にある子どもたち、それも幼子により顕著に現れます。胎児への影響はさらに大きいのです。まさに幼い命、これからの命が危機にさらされているのです。このような事態が再び繰り返されてはなりません。本件訴訟の一番の目的はこのような破局的状況が玄海原発で起きることを阻止することです。
第2の理由は、プルサーマルによるプルトニウム利用が核兵器拡散のハードルを著しく低くしてしまうことです。
66年前、長崎に落とされたたった一発の原子爆弾によって、73,000人がその年の内に命を失い、かろうじて生き延びた被爆者もガンや白血病など、放射線の影響に苛まれながらの人生を余儀なくされました。原爆は三度繰り返されてはならないジェノサイドです。この原爆に使われたプルトニウムは約8kg。そのうち核分裂したのは約1kgだと言われています。たったの1kgの核反応があの惨劇をもたらしたのですから核の威力は想像を絶するものがあります。
プルトニウムを作り出す技術は兵器用であれ、原発用であれ、変わりはありません。利用目的が異なるだけです。インド、パキスタン、朝鮮民主主義人民共和国の例をみても原発を隠れ蓑にして核兵器が開発されてきたことは明白です。そして、今、焦点となっているイランの核開発も同様です。
原子炉で生成されるプルトニウムは原子炉級プルトニウムと呼ばれており、核分裂性のプルトニウムと核分裂性でないプルトニウムが混在しています。このため、原爆としての性能が問題となりますが、1962年アメリカは原子炉級プルトニウムで核実験を行い、原爆としての威力を発揮することを確認しています。使用済み核燃料再処理工場で抽出されるプルトニウムはそのまま原爆の材料となるのです。そのような物質が日常的に一般社会の中で流通してしまっては核拡散の危険性が著しく高くなってしまいます。
わが国は非核三原則を政策として採用しており、核兵器を保持していないのは当然です。しかし、原発で利用するプルトニウムを保有するかぎり、軍事転用はいつでも可能なのですから、外国から潜在的な核武装国だとみなされても文句は言えません。
原爆の惨劇を体験したわが国が、世界に類を見ないプルトニウムの大量生産、大量消費を繰り返すプルトニウム大国となったのでは、他国がプルトニウムを保有したいと言い出してもそれを止める資格と説得力を失ってしまいます。
第3の理由はプルサーマルを行うまともな理由と必要性が無いことです
わが国の原子力利用政策の中心は核燃料サイクルの確立です。使用済みウラン燃料からプルトニウムを取り出し、それを核燃料として再利用する。高速増殖炉のような新型炉開発によって投入したプルトニウム量以上のプルトニウムを新たに生産する。まるで、夢のような話ですが、エネルギー資源に乏しいとされるわが国において、それは純国産のエネルギー資源になると位置づけられてきました。
しかし、その高速増殖炉開発は1995年12月原型炉「もんじゅ」の事故によって先行きの見通しが立たなくなりました。他方では、海外に委託していた使用済みウラン燃料の再処理が進み、取り出したプルトニウムは溜まりつづけ、国際的にもわが国のプルトニウムの取り扱いに注目が集まるようになりました。そのため、政府は1997年、利用目的のない余剰プルトニウムは持たないことを国際的に約束すると共に、各電力会社にプルトニウムを消費するプルサーマル計画を求めたのです。しかし、「溜め込んではいけない物を溜め込んでしまったので危険を冒してそれを消費する」というのは余りにも乱暴な論理ではないでしょうか。加えて、六ヶ所再処理工場を稼働させ、使い道に困るプルトニウムを新たに抽出しようとしているのですから言語道断です。
原爆被爆者は自らの存在意義を賭けて「ノーモアナガサキ、ノーモアヒロシマ」と核兵器廃絶を訴えます。チェルノブイリ原発事故による被災者の救援キャンペーンで九州を訪れた、いわゆるチェルノブイリの子ども達は「私たちのことを忘れないでください」とのメッセージを残していきました。そして、今、苦しみと悲しみと怒りの中にあるフクシマの人々は「放射能に汚染されていないフクシマを返せ」と悲痛の叫びを上げています。核の被害を受けた一人一人のその体験を通して発される命を賭けたこのようなメッセージに対し、私たちはどのように向かうべきなのでしょうか。私はその答えをこの裁判に求めたいと思います。わずかばかりの刹那的な生活の利便性のために、将来の世代に取り返しのつかない負の遺産を与えていいのか、問題は極めて単純です。放射能の恐怖から人々が解放される道を示す判決を期待して陳述を終わります。
意見陳述
2011年3月11日
住所 福岡県糸島市波多江駅北
氏名 松 原 学
私は福岡県糸島市に住みます原告の松原と申します。
1. 私は九州大学工学研究院、航空宇宙工学部門で技術職員として勤務しています。仕事の内容としては、航空機、ヘリコプター、飛行船、ロケット、人工衛星、ロボットなど、先生方や学生さん、あるいは様々な研究機関の方の研究テーマに沿った実験装置の開発や設計製作を行っています。
27年間、そのような仕事をさせていて頂く中で、さまざまな物理現象を計測する困難さとそれを克服する面白さ、自然界の奥深さなど、人間も含めた自然界の素晴らしさを大観させて頂いています。
また一方で、「環境共育(かんきょうきょういく)を考える会」という任意団体を16年前から立ち上げて、環境学習、環境ボランティアなどの活動を行っています。毎月一回の勉強会では、さまざまなテーマでの勉強会を開催しています。また、毎月一回の野外活動では、荒廃した山林の手入れや棚田の保全活動を行っています。昨年、当団体は福岡市からその永年の取り組みに対し「福岡市環境行動賞・優秀賞」を頂きました。
私の市民活動の原点は水俣病です。
熊本県南部で起こった水俣病。半世紀を経ても、まだ、その全容すらわかっていないこの事件、世間の人は「公害」という言葉を使い、その本質をごまかしているように思います。この事件は「公の害」ではなく、一企業が利潤追求のために、命を軽視し、環境を汚染し、人を差別し、多くの方を不幸に陥れ、多くの命を奪い去りました。
多くの人や様々な生命が自由に生存し続ける権利を奪うこと無く、誰も不幸にならないことを大前提とした、企業の活動範囲に制約を義務付けること。この大切な倫理を未だに私たちは、国の方針として将来の子供たちに誓っていないことです。
その意味で水俣病から私たちは、何も学んでいないと思います。
この悲劇を司法としてどうとらえるのか、裁判官、一人ひとりが考えて頂きたい。
この悲劇を有力企業の九州電力として、どうとらえるのか、考えて頂きたい。
この悲劇を私たち、今を生きる市民としてどうとらえるか、考えなければならないと思っています。
2. さて、ここに一冊の本があります。1989年に出版された本です。この本の表紙を飾る一枚の写真には、くちばしの曲がった鵜があります。これは、実は生まれつき、くちばしが曲がったまま生まれた鵜です。くちばしが曲がっていますので、自分の卵の殻も割れない、魚もうまくとれないということで、自然界では生育が困難な鳥です。この鳥は人間が関与してここまで成長しました。
この鳥の異常な現象に対して、当時「私たち人間社会が及ぼした影響では無いか」と疑っていましたが、原因を特定することはできませんでした。
それから十数年がたち、「環境ホルモン」という言葉で代表されるように、私たちの人工化学物質が自然界に氾濫し、そのごくごく微量な化学物質によって、さまざまな生き物の成長過程に決定的な影響を与えることがわかりました。
それ以来、世界各国で「環境ホルモン」となるべき化学物質の自然界への汚染を防ぐ取り組みが行われています。
DDT PCB フロン、この3つの化学物質は、発見・発明された時は「夢の物質」として、もてはやされました。そして、これらの発見・発明には、ノーベル賞が送られました。
ところがその後、これらの物質は現在、国内ではすべて製造中止となっています。
これらの物質が持つ、「分解しにくい特質」が自然界の循環にはなじまないものであり、それが及ぼす悪影響を人間は自らの手で正そうとしたのです。
すなわち、危険な化学物質は、人間社会において、製造・流通・販売を禁止したのです。これは、私たち地球に暮らす一つの命として、大変喜ばしいことで、最低の倫理だと思います。
一方、あらゆる命にとって有害な放射能を持つ放射性物質はどうでしょうか。
放射性物質は人為的に削減などできないにも関わらず、この無差別殺人物質は、日々刻々と、原子力発電所の中で増殖を繰り返しているのです。
原子力発電所は、危険な放射性物質の製造工場なのです。
そして、ごく微量だからと滑稽な言い訳で、毎日毎日、放射性物質が大気中や海に放出されているのです。
私たち日本人は、ガンやアレルギーの疾患が多く見られますが、全国くまなく存在する原子力発電所から排出される微量の放射性物質によって、私たち身体の発達や免疫系が被害を受けていることも一つの大きな原因になっているかもしれません。DDTやフロンと同じように、自然界に多大な影響を与えている可能性もあるのではと思います。
3. 私が九州電力のプルサーマル計画を知ったのは、一昨年の2月でした。知人から福岡市内の教会で講演会があるから来ないかと言う誘いで、プルサーマル計画を知り、唖然とし、こんな危険なことが行われては困ると思いました。それから少しずつですが、原子力のこと、プルサーマルのことを学び始めました。
今回の九州電力プルサーマル計画ですが、その中身があまりにも無謀だと私は思います。そして、充分な説明もしないで企業としての社会的な責任を完全に放棄しているのではと思うばかりです。
安全と主張するのであれば、その安全の根拠を市民に理解できる形でなぜ、説明しないのでしょうか。
九州電力のプルサーマル計画でのMOX燃料の燃料被覆管の内圧に関する安全余裕は、1%しかないのです。しかも、その設定は地元の了解を得る時には、18%程度であったものが、後にすり替える形で、1%となっています。また、この変更に対する市民への説明は一切ありません。
原子力発電所とは、ひとたび、大きな事故が起こると、対処のしようもなく、膨大な被害が出ることは、チェルノブイリ原発の事故で、私たちは学んだのではないでしょうか。
新しい技術を導入する場合、未知なことを含めて、現行のウラン燃料よりも厳しい安全基準を用いるのは常識ではないのでしょうか。ところが、九州電力の場合、現行のウラン燃料よりも危険性を許すような評価となってしまっています。
これは、「安全性」を無視する考え方の現れであり、絶対安全を前提とする地元合意を踏みにじるものです。
4. 昨年末に九州電力玄海原子力発電所3号機で、一次冷却水に放射能が漏れる事故が発生し、発電を停止しました。
これまで、九州電力は同様の事故を玄海原子力発電所で8件起こしています。
ところが、この事故の原因究明はなされないまま「偶発的に生じた微細な穴(ピンホール)による漏えいと推定」として、推定のまま、詳細な報告書もないままになっています。推定ですから、原因を究明したことにはなっていません。漏えいした燃料体を研究所に送って調査するということすらしておらず、推定したままを信じろという地元無視の傲慢な態度だと思います。
今回の事故で初めて明らかになったことがあります。
それは、九州電力がプルサーマル実施に取り組むための計画が書かれた「設置変更許可申請書」にある原子炉内の燃料体配置計画と実際の配置が異なっていた点です。人々に説明した計画とは違う配置で運用し、誰も客観的に評価できない、そんな隠ぺいされた環境の中では、必ず重大事故が起こるのです。ガラス張りにすることで、運用の判断を平衡化でき、結果的に安全性が高まることは、歴史から見て常識です。
なぜ、当初の計画とは異なる燃料体配置にしたのか、きちんと市民に説明し、理解を深めながら行うことこそが安全性・信頼性を確立する唯一の道です。
5. 私たちは、原子力発電に頼らなくとも100%必要な電力が賄えることを理解しました。
私たちは、原子力が無害なエネルギーでないことも理解しました。そればかりか、放射能という、私たちの手に余るものを後の世までも負の遺産として残すものだと理解しました。
21世紀を迎え、本当に持続可能な社会が求められているのではないでしょうか。
私たち日本人は「世界で唯一の被爆国」と言っておきながら、これまで、どれだけ原子力・放射能について理解してきたのでしょうか。
放射能の本質を今一度、多くの方に理解頂き、本当に私たちに必要なものは何なのか、大切にすべきことは何なのか、考え直す時に来ているのではないでしょうか。
私たちはこれまで、プルサーマルの無謀さを社会に訴え、九州電力にも再三にわたって中止を求めてきました。また、多くの関係自治体にも出向き、その危険性を訴え、計画の中止を求めてきました。しかしながら、その訴えは未だに実現されず、刻一刻と危機的な状況が確実に高まりつつあります。
プルサーマルを止めない限り、玄海原子力発電所3号機では、プルトニウムから私たちの手に負えない危険な高レベル核廃棄物が生産され続けていますし、燃料内部ではガスが発生し、燃料被覆管の内圧を高めています。
これまでの安全性に対する考え方を根本から覆すような暴挙を平然と行っているのが、九州電力なのです。この暴走を防ぐのは、今は司法しかありません。
裁判長、どうか、私たちの訴えを聞いて下さい。そして、これは何の罪もない子供たちの命を守るための訴えであることを理解して頂きたい。
最後の砦としての、この司法の場で弱者救済の立場において、法の理念に基づき、私たちの命の訴えに耳を傾けて下さい。
どうか、私たちの命とこどもたちの未来を守って下さい。
陳述書
佐賀地方裁判所 御中
2010年12月1日
1.私は、唐津市呼子町に住む徳永というものです。
玄海町値賀地区に実家があり、毎月、実家に通って木工や農業をしながら生活をしています。玄海原発に一番近い値賀小学校、値賀中学校に通って子供の頃を過ごしています。ですから、私が原告の中で原発に一番近くで生活してきているのではないかと思っています。そういう私の原発に対する意見を、是非皆さんに聞いていただきたく、今日この場に立たせていただいています。
2.私が原発に不信感を覚え始めたのは、スリーマイル島事故とチェルノブイリ事故が起きたころからでした。その頃から続々と原発に関しての本が出されるようになり、それを読むようになりました。それから、私の祖父はシベリア抑留者で二年間森林伐採をやっていたそうです。その弟もシベリアに抑留されて、三男はガダルカナルで戦死していたというのを同じ頃に知り、家族の苦労を知り、国というものが一般市民にいかに無責任なことをしでかすかわからないというものに気づかされました。このことが原発を見る時に私が、国というものがいかに信頼できないか、声をあげないと勝手放題やりかねないということを感じている理由の一つになります。その頃に、沖縄を北たから南まで歩きながら、沖縄の人達と交流し平和を祈る日本山妙法寺の平和行進に参加しました。その時に初めて沖縄の過去と現在の苦しみ、沖縄を本土の人間や国が無視をして苦しめているかを知りました。それがきっかけでいろいろな所を平和行進しました。どこも一番弱い立場の人達が苦しんでいる姿を見ることになりました。そういう経験の中で日本のように食べ物があり余っている所はわずかな国しかないことを感じ、バブル経済がいつか終わり、食糧の心配をしないといけない時が来るのを二十年程前に感じ、玄海町にある実家に帰り農業に取りくみ始めました。玄海原発の事が非常に気になっていたのですが、その頃原発の寿命は三十年だし、廃炉になっておとなしくなくなってしまうと思っていたのですが、いつの間にか六十年も稼動させることになり、プルサーマルとそれまで聞いたことのないものを強引に行ってしまって常識では考えられない方向に原子力政策が進みだしたので驚きあきれてしまっています。
3.佐賀県は平成十七年十二月二十五日、県主催でプルサーマル計画について公開討論会を行いました。そこでは推進派と慎重派の論点の提示が行われましたが、あまりに論点が多く、議論が不十分なままに討論会は終わりました。このときやっと議論は始まったばかりだったのですが、古川知事はその討論会で理解は深まったとコメントされています。これから本格的に議論が行われていくと思っていた矢先に理解は深まったとされた知事のコメントには驚き、それから、議論を深めようといった討論会は行われていません。そして、県議会がプルサーマル計画を「慎重」に進めるように決議された二月議会の四日後には、古川知事は事前了解を発表してしまいました。それから、今までプルサーマルへのいろいろな不安、疑問は解決されていません。あまりに拙速すぎると思っています。
4.プルサーマル計画は、使用済みウラン燃料の処分方法の選択肢の一つでしかありません。再処理・プルサーマル計画は、直接処分よりコストが高く不経済です。このことは、国会で福島瑞穂議員が過去のコスト試算を質したところ「日本におきましては、再処理をしない場合のコストを試算したことはございません」という答弁でした。しかし、これは全くの虚偽の答弁で、あとから内部告発で直接処分の費用の試算が行われている事が解りました。それによると再処理の費用は直接処分の約四倍であるとされています。このように政府は嘘までついて強引にプルサーマルを進めています。国の安全管理体制について、これまで、一九九五年の高速増殖炊「もんじゅ」のナトリウム火災事故、九九年のJCOの臨界事故、同年イギリスBNFL社のMOX燃料データ改ざん事件、二〇〇四年の美浜三号炉の覆水管破断事故と事故が続けざまに起こっていることを考えると、国の原子力安全管理能力に疑問を持たざるをえません。九九年のイギリスのBNFL社製のMOX燃料のデータねつ造事件では、市民グループが差し止め訴訟を起こして、データねつ造を証明したにも拘らず、判決の出る予定日の前日まで高浜四号炉のプルサーマル計画を止めようとしませんでした。私達の命と生活が危険にさらされたこの事件により、原子力安全委員会への信頼は地に落ちてしまいました。
5.プルサーマルの計画の最大のネックは、行き場のない使用済みMOX燃料です。しかもこのMOXの使用済み燃料は、従来のウラン使用済み燃料に比べて数倍も放射能が強く、発熱量も多いため、危険で取り扱いが大変なものです。使用済みウラン燃料ですから、原子炉から取り出したときの温度が約五百度、発熱し続ける為、五年間貯蔵ピットのプールの中で冷却水で冷やされて、やっと百度になり空冷状態で貯蔵できるようになります。では使用済みMOX燃料はこれがどれくらいかかるかというと、百年以上です。この発熱は放射性物質がみずからアルファ線やβ線などの放射線をだしながら崩壊していくためにでるものですから、その時間を早める事は出来ないのです。この温度を早く下げたり調節したりする事は不可能です。私達の不安は私達の子供や孫、そして子供たちがこうしたやっかいな使用済みMOX燃料を引き継いで困ったり途方にくれたりしないかということです。使用済みMOX燃料は、現在、再処理できる施設が日本にはありません。青森県の六ヶ所村の再処理工場は使用済みMOX燃料は受け入れないということです。第二再処理工場を作ると一部の人は公の場で言っていますが、何十年も先の話ですし、今の再処理工場でさえ、当初の予算の三倍の二兆円以上もお金をかけて、トラブル続きで、稼動をまた二年先に延ばして、四千億円程増資もするそうです。こんな状態でとても第二再処理工場が現実味のある話とは思えません。それに世代責任というものがあると思います。私達の世代が原子力のエネルギーを享受したなら、それに伴ってできた廃棄物は私達の世代で処理しなければなりません。それができないなら、最初から行ってはいけません。
6.環境の時代といわれて久しいのに、自然エネルギーではなく、原子力だけになぜ莫大なお金をかけ推進するのでしょうか。放射能汚染は進んでいるのではないでしょうか。原発は地球温暖化を防ぐのに、役立つといわれていますが、原発の温廃水は海水の温度より七度も高いのを毎秒50t〜60tも出しているので、海も絶対的に大きな影響をうけているはずです。それから、原発は核兵器の材料を生み出します。そういう風に言うと「いや、そんなことは全くない」と、原発推進の人達は言いますが、それならなぜ、北朝鮮やイランの原発は核兵器に利用されるかも知れないとマスコミをとおして、声高に言うのでしょうか。北朝鮮はプルトニウムを八㎏も持っている。核兵器何個分になると言ったりします。日本はプルトニウムを何トン持っているでしょう。約43t(核分裂性で約30t)にもなるようです(2005年末段階)。核兵器何個分でしょう。非核三原則が日本にはあるから、私も大丈夫だと最近まで思っていましたが、「これは法律ではないので核兵器を作る上で何の拘束にもならない」とだれかから聞かされ、私も驚きこれまでの原子力政策のあまりの強引さは、核武装の思惑が結びついているからだと気づきました。今年の広島市長、長崎市長の平和宣言の中に、非核三原則の法制化を政府に強く求めたということを聞いて、両市長の核武装への危機感のあらわれだと感じています。私は、子供を連れて毎年、長崎の原爆の日に爆心地公園で日本山妙法寺のお坊さん達と御祈念をしています。三度核兵器が使われる事がないようにと心に刻みつけています。自分を守る為なら、核兵器を敵に落としてもかまわないという発想は、悪魔の思想だといわざるをえません。このようなことが日本で行われことが無いよう、声をあげなければと思っています。
7.私は、結婚する時にパートナーの両親から結婚を反対されました。「そんな原発の傍に嫁にやれない」と言われました。両親の気持ちを考えれば、言葉をさしはさむことは出来ませんでしたが、しばらくして、両親の納得も得ることが出来ました。ただ子供が生まれて小学生になる時にも「孫をあの原発の目の前にある小学校にはやって欲しくない」と言われ、大変な思いをして、呼子に転居し、私が毎日実家に通って仕事をすると言う形の生活になりました。原発のお陰で生活が振り回されています。いつかは、原発が無くなって、スローライフ、スローフード的な生活ができると思っていたのに、プルサーマルが始まってしまい、その目標は絶望的になりつつあります。中間貯蔵施設の話まであります。玄海町は核のゴミ捨て場になっていくのではという危具もあるわけです。
8.先日、私の小学校、中学校の時に同級生だった友達がガンで亡くなりました。葬儀に出ている間、色々なことを考えました。玄海町は、ガンで亡くなる人があきらかに多いと聞いています。静かに我々をここで生活できない方向においつめています。九電職員で玄海町に家族で住んでいる人は、ほとんどいないと思います。皆、唐津市内にすんで、バス等で通ってきます。この行動が原発は危険だということの証明になります。彼らが一番知っているということになります。
最後に、もう原発は止めるべきです。自然エネルギーへの転換をはかり、新しい産業をおこして雇用を生みだすべきです。今のままでは、使用済みの燃料が溜る一方で、さらに悪い方にいってしまいます。もちろん、プルサーマルも止めるべきです。経済的にも大きな負担になっていきます。そういう事を皆わかっているのに止められないでいるわけです。どうか、この裁判が未来の人達が見た時に、高い評価の得られるような、裁決が下されるよう祈っています。
以上
陳述書
佐賀地方裁判所 御中
2010年12月1日
私は、佐賀市に住む石丸初美と申します。
私は4人の子の母親で、2006年2月よりプルサーマルのことを知りこの運動に参加しました。私は、それまでほとんど原発の問題を知らない主婦でした。しかし、係わって少しずつ教えていただくうちに、原発は子・孫の時代に、放射能のゴミ問題と原発老朽化問題を必ずおしつけることになると知り、それらの問題が現実になる時のことを考えると心配でかわいそうでなりません。
この裁判はこれまでやってきた私達市民運動の延長線上の運動です。
1.昨年11月5日に、九州電力玄海3号機のプルサーマルの試運転が始まりました。その事は、翌日朝刊一面トップになり、記事の見出しには「プルサーマル臨界に」つまり、「MOX燃料の規則正しい核分裂開始」というニュースが平然と書かれており、衝撃と驚き、そして何より不気味さを感じました。
普通の生活で「臨界」という言葉は殆ど耳にする事はありません。
はたしてどのくらいの人にこの記事が正しく伝わったでしょうか。 私達はチラシまきなどしていますが、未だ市民の中にはプルサーマルの言葉すら理解していない人も少なくありません。
私もこの運動に係わっていなければ、この新聞記事が目に入ったとしても、不安や違和感は覚えなかったと思います。玄海3号機の無謀なプルサーマルが始まった事で、私達住民の不安は現実になってしまいました。
2.科学者の中には、玄海3号機プルサーマルは世界に類を見ないほどの危険な事で実験なしである。運転=実験である。そして将来の生活環境を破壊する恐れがあると唱えて、中止を求め要望をしている人もいます。
賛成・反対の論争が続いている間は、プルサーマルはやめるべきと、私達は思っています。
プルサーマルに使用する原子炉は、本来ウラン用に作られたもので、安全性の余裕を削ると言われています。
また、原子力発電所では、ウランやプルトニウムが燃料として使われ、その燃料は広島・長崎原爆の材料と同じものです。そのような危険なものが燃料ならば安全管理と情報公開は公共性の高い企業として当然のことです。
私達市民は、2006年2月7日突然の古川知事の安全宣言表明で危機感を覚え、性急な事前了解をしないようにと、プルサーマル反対の署名を約2 週間で2万余を集めました。何とか直接知事へ手渡したいと半日にも及ぶ話し合いを持ちましたが受け入れられず、3月26日古川知事は事前了解を強行しました。
3.私達は、プルサーマルを止めるため、その年10月3日から2ヶ月間玄海3号機プルサーマル計画の是非を県民投票で問うべきだとする県民投票条例制定を求める署名活動を開始しました。
有権者の50分の1(約14,000名)をはるかに上回った49,609名を県議会に提出しましたが、2007年2月2日の臨時県議会では自民党や公明党などの反対により、あっけなく否決されました。
議会の否決理由は「①住民投票は議会の存在を否定する」「②プルサーマル住民投票は間接民主主義の逸脱」「③プルサーマルは議会が慎重に審議し判断する、県民では総合的な影響を評価できない」、また知事は、「①県にとっての重要な施策を直接住民が決めるという"県民投票条例"だったため、その条例が必要だという判断をすることができない。②県民投票にはなじまない」という事でした。
しかし、プルサーマルは命の問題だからこそ諦める訳にはいかず、県民投票否決後も勉強会や講演会など、市民で出来る限りの広報活動をし続け、 2009年に入ってからは、大阪の京都、東京、をはじめ全国の皆さんと一緒にプルサーマルを止めるための行動をしてきました。九州四国の近隣県の人達にも伝えていきました。
4.大きな論点になっているプルサーマルのごみ処理問題については、核燃料サイクルの現状から、使用済みMOX燃料の行き場がないという事が明らかとなり、特に六ヶ所再処理工場と高速増殖炉「もんじゅ」の現状に照らせば、MOX燃料を炉内に装荷して3〜4年後に取り出される問題に対し、各原発立地自治体や市民から、全国的に強い懸念の声が湧き起こりました。2009年5月18日には、全国420の市民団体の連名で国に要望書を提出し、佐賀の私達も参加しました。国会議員のヒアリングとして、関係5部署(資源エネルギー庁、原子力安全・保安院、原子力委員会事務局、原子力安全委員会事務局及び文部科学省)との議論が行われました。
その中で、資源エネルギー庁の担当者は、使用済MOX燃料の処理方策を検討開始するための条件である準備的検討の報告書が未だ公表されていないと表明しました。
これを受けて私たち市民は、その趣旨を佐賀県内で説明する場を設けるよう県当局に何度も要請しました。やっとのことでその場が8月11日に実現し、資源エネルギー庁の森本課長の説明を受けました。
ところが森本課長は、5月18日の担当者の発言を翻して、準備的検討の報告書はすでに提出されているとし、さらにその後、5月18日に担当者が虚偽の発言をしたとの謝罪文を国会議員に配布するというパフォーマンスまで行いました。
しかし、六ヶ所再処理工場の現状から、準備的検討の報告書が提出できるような状況にないことは誰の目にも明らかであり、また事実その「報告書相当」と称する文書に準備的検討と言えるほどの内容がまったく含まれていないことも明らかであるのに、官僚的な強弁を無理矢理まかり通したのです。
5.核燃料サイクルについては現在行き詰っていると言われ、核のゴミの処理も決まらないまま始められたプルサーマルです。
原発から出るゴミは遺伝子を破壊する厄介な放射能のゴミです。
国は使用済みMOXの処理については、2010年から検討を開始すると言っていましたが、現在もその目途さえたっていません。それどころか、今年9月12日に近藤原子力委員長は、「これから10年で検討するということだ」と青森で発言しました。
市民生活では、生活から出るゴミでさえ市民が法に従って責任を持たされて生活しています。
原子力発電所から出るゴミは放射能のゴミです。そのゴミを出してから考えるという考えそのものが、私達市民感覚には理解できないし、公共性の高い企業の正しい判断とは思えません。九州電力の理不尽な経過に対して、私達市民はいまだ強い憤りの念を抱いています。
6.そして、2009年8月19日に関西電力が、玄海3号機用と同じメロックス社製のMOX燃料の1/4を自主検査によって不合格・廃棄処分にする事態が起こりました。この問題は佐賀県議会においても取り上げられ、九州電力は同じ不合格レベルのMOX燃料を使用しようとしているのではないかとの強い懸念が議員から表明され、私達県民が明確な説明をするよう求めたことで、佐賀県はその問題の調査をすると議会で表明しました。
ところが九州電力は、この問題が議会で審議中の9月30日に、突然MOX燃料を10月2日に炉内に装荷すると表明しました。私達住民の反対の声を受けた佐賀県議会は全会派一致で、装荷をしないよう九州電力に要請するようにとの文書を県知事に提出しました。そのため、九州電力はいったんは装荷を延期せざるを得なくなったのです。
また、このような過程の中で、10月7日、私達も全国の市民運動の方と一緒に原子力安全・保安院検査課との交渉に参加しました。検査課の担当者は、関西電力が不合格にしたのと同レベルのMOX燃料が九州電力の玄海3号機用MOX燃料に混ざっていることは否定できないと明確に述べました。しかし、このような疑問を無視し、佐賀県の調査結果も説明されない中で、九州電力は10月15日に炉内へのMOX燃料装荷を強行しました。
ところが他方、この過程でMOX燃料には具体的な審査基準(規格)が存在しないのではないかとの疑問が浮上し、その点を国に糺すことになりました。10月28日に国会議員ヒアリングとして実施された検査課の説明で、MOX燃料には具体的な審査基準はないことが明確になりました。このような不良MOX燃料に関する私達県民の強い疑問に対して、九州電力も佐賀県も玄海町も何ら具体的な納得できるような説明は何一つしていません。また、使用済MOX燃料の処理方策がないことについても何もまともな説明をしないまま、九州電力はついに12月2日に玄海3号機プルサーマルの商業運転を開始しました。
7.私達は九州電力に対し幾度となくプルサーマルの情報公開を求めてきましたが、私達消費者に対し誠意ある回答はなく、企業機密としか答えていません。
私は、九州電力との交渉の度に、普通他の商品には、「但し、‥‥は危険」等の注意の但し書きが書かれているのに、電力という商品には但し書きが欠けているのは何故かと質問してきましたが、その回答はありません。
そして国や佐賀県、玄海町、福岡県、福岡市、糸島市、などにもプルサーマルの危険性を訴え中止を求めてきました。
住民の命と安全を守るべき立場の佐賀県、玄海町は、市民の質問に対し「国策ですから。国が安全と言うから安全です。国を信じています」と具体的な回答はなく、私達の疑問と不安は解消されず、今も強い憤りを抱いています。
私は、昨年2月13日国との交渉で事故が起きた場合の責任の所在を知りたくて、国の担当者に確認しました。九州電力や佐賀県が信じている国の担当者は「責任は国ではない。電力会社にある。国は電力会社に指導をしているだけだ」これが国の答えでした。九州電力は国の認可を得ているといい、佐賀県や玄海町は国を信じているという。私は、責任のたらい回しを確信しました。ひとたび大きな事故が起きれば、佐賀県のみならず広範囲に甚大な被害を及ぶといわれています。命の責任はだれにも取れません。
8.プルサーマルについての安全性は100%でないと九州電力も国も認めています。
九州電力の言っている僅かの危険性は放射能の問題を引き起こし、人体に及ぼす影響ははかり知れません。たとえ数パーセントであっても誰も引受けたくはありません。
このまま全国のプルサーマルが続けば、市民が知らない間に安心して暮らせる場所はなくなってしまいます。
私達は事の真相を知った大人として、何も知らずに生まれ、何の受益も受けず、ただただ核のゴミのツケだけを私達の子・孫に残していく訳にはいきません。
私たちが今まで安心して生活できたのは、過去の人々のお陰です。
私達は、未来に安心できるふるさと自然を譲り渡し、未来の人にもこの世に生まれてよかったと言ってもらいたいだけです。
そのために、今声をあげることが出来る大人の責務として、九州電力に対しプルサーマルの中止を求め提訴しました。
どうぞ市民の切なる声と受け止めていただきますよう、よろしくお願いいたします。
今日は、貴重な時間を私達に裂いていただきありがとうございました。